猫弁2 猫弁と透明人間 大山淳子 [#(img/02_表紙.jpg)] [#(img/02_001.jpg)] [#ここから2字下げ、折り返して8字下げ] 百瀬《ももせ》 太郎《たろう》[#「百瀬 太郎」はゴシック体] 天才弁護士。ペット訴訟のわけあり猫を引き受けている。通称|猫弁《ねこべん》。 大福《だいふく》 亜子《あこ》[#「大福 亜子」はゴシック体] ナイス結婚相談所職員。百瀬に恋をする才能を持つ。 野呂《のろ》 法男《のりお》[#「野呂 法男」はゴシック体] 百瀬法律事務所の秘書。左手の薬指に指輪をはめている。 仁科《にしな》 七重《ななえ》[#「仁科 七重」はゴシック体] 百瀬法律事務所の事務員。事務は苦手。 柳《やなぎ》 まこと[#「柳 まこと」はゴシック体] まこと動物病院の女獣医。仕事は往診が中心。 寿《ことぶき》  春美《はるみ》[#「寿  春美」はゴシック体] 亜子の後輩。美声でふくよか。 梅園《うめぞの》光次郎《こうじろう》[#「梅園光次郎」はゴシック体] 百瀬が住むぼろアパートの大家。 沢村《さわむら》 透明《すけあき》[#「沢村 透明」はゴシック体] 法律王子のゴースト。ひきこもり歴二十年。 二見《ふたみ》  純《じゅん》[#「二見  純」はゴシック体] 通称・法律王子。連勝負け無しの人気弁護士。 田部井《たべい》すず[#「田部井すず」はゴシック体] 五歳の女の子。    杉山《すぎやま》[#「杉山」はゴシック体] 関西弁のタイハクオウム。   テヌー[#「テヌー」はゴシック体] 百瀬に拾われたサビ猫。   タマオ[#「タマオ」はゴシック体] 世田谷猫屋敷のボス猫。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]       目 次   第一章 タイハクオウム   第二章 黄色いクレヨン   第三章 ゴースト弁護士   第四章 モモと透明   第五章 最初のひまわり       装画 カスヤ ナガト       挿画 北極まぐ       装幀 next door design       印刷 豊国印刷株式会社       製本 大口製本印刷株式会社       協力 北川雅一(TBSテレビ) [#(img/02_003.jpg)]    第一章 タイハクオウム  たとえば、中華料理店で酢豚《すぶた》定食を頼む。すると麻婆豆腐《マーボーどうふ》定食がやってくる。  塩ラーメンを頼むと、みそラーメンがやってくる。  店員にたずねると、「あ、まちがえた」と言う。  アイスコーヒーにミルクを注ぎ、パチパチとはじける音がしたとき、百瀬は自分の宿命に気付いた。  注文通りの品が来ないという宿命である。  ミルク入りコーラを飲みながら考えた。  間違えられる確率は三〇パーセントくらいだが、これって非常に高いのではないだろうか。  自分はなぜ間違えられるのだろう? 「この客は尊重しなくていい」という油断を相手に与えてしまう風貌《ふうぼう》だからだろうか。  くせの強い前髪が無秩序《むちつじょ》に額《ひたい》を覆《おおい》い、黒ぶちの丸めがねが重そうに鼻にひっかかっている。  百瀬太郎、三十九歳。弁護士である。人は彼を猫弁と呼ぶが、特に猫好きというわけではなく、コーラ同様、くるものを素直に受け入れる。それが百瀬の日常だ。  さて本日、百瀬の目の前のグラスには緑色の液体が入っている。  グラスの中身は小松菜ジュースだ。  今日は注文通りに運ばれてきた。がしかし、そのことを喜べないでいる。  小松菜にはビタミンと鉄分がたっぷり入っている。どうせ六百円を払うなら、なるたけ栄養価の高い飲み物をと、迷わず注文したのだが、そのあとすぐに相手が「珈琲《コーヒー》」と言うのを聞き、急に自分がみみっちい人間に思え、悲しくなった。  同じ価格で栄養価ゼロの珈琲を「香りが豊か」という贅沢《ぜいたく》な理由で注文するべきだった。 「本日の予定ですが」  せめて会話はイニシアチブを取ろうと思う。 「昨夜いくつかの提案を練ってみました」  言いながら百瀬は大学ノートを開いた。ノートにはびっしりと文字や表が並んでいる。  すると相手は珈琲に砂糖を入れた。スプーン1杯だ。  百瀬は話しながらも、律儀《りちぎ》にデータを脳に刻む。珈琲カップ1に砂糖スプーン1。 「しかしわたしが提案を申し上げる前に、やはりまずご本人のご意向を伺い、それからこちらの提案をさせていただけたらと思います」  ここまで話すと、相手は言った。 「百瀬さん、わかっていますか?」  百瀬は緊張した。何かミスを犯したのだろうか? 「わたしは依頼人ではありません。そういう話し方はどうかと思います。全然、なっていません」 「なっていませんか」 「提案とかご意向とか、おかしいです。他人行儀《たにんぎょうぎ》じゃありませんか。だってわたしたちはその」  相手は言いよどみ、スプーンでもう1杯砂糖をすくった。  百瀬はとっさに「砂糖スプーン1」のデータを「砂糖スプーン2」に更新しようとしたが、そのスプーン1はなぜかシュガーポットに戻された。  次にその白く細長い指はミルクピッチャーを持ち、珈琲カップ近くへと運んだ。  ミルクはどれくらい入れるのだろう?  百瀬は見逃すまいと相手の手元を凝視《ぎょうし》した。すると相手は言った。 「婚約者《こんやくしゃ》なんですから」  そのあと、婚約者と自称する女は長い説教をし始めた。  男女のつき合いはこうあるべきという一般論、男女の会話はこうあるべきという一般論。  それはすべて、百瀬にとっては耳にタコができ、そのタコがはがれ落ちてまたできるくらい馴染みのある「論」だった。  今は脱会した結婚相談所の担当職員から三年間、言い聞かされ続けたことを、こうして婚約者からも説教されることに、一種|感慨《かんがい》があった。  職員と婚約者が同一人物であることにも感慨があった。  最も感慨深いのは、自分に婚約者がいるという現実だ。  彼女いない歴三十九年の男に、いきなり婚約者である。われながら腑《ふ》に落《お》ちない現実がここにある。  百瀬はストローを無視してグラスをつかみ、豪快《ごうかい》に小松菜ジュースを飲んだ。  すると急に心が落ち着いた。  小松菜はカルシウムが豊富な野菜で、不安感を鎮静化する作用がある。ビタミンと鉄分補給目的で頼んだ小松菜ジュースだったが、思わぬ効能があったと百瀬はうれしくなる。  この注文で間違いなかった。しかも注文通りきてくれて助かった。 「大福《だいふく》さん」  百瀬は緑色にふち取られた唇《くちびる》を動かして言った。 「ミルクを入れますか? さっきから気になって」  そう言われて、大福|亜子《あこ》は自分がミルクピッチャーを握っていることに気付いた。 「ミルクは入れません」と言って、亜子はミルクピッチャーをテーブルに置いた。 「わたし、珈琲はブラック派なので」  そう言って亜子は珈琲カップを口に寄せて、ひとくち飲んだ。  百瀬はあれっと思った。  亜子もあれっという顔をした。 「甘い」 「だって大福さん、さきほど砂糖を入れましたよ。スプーン1杯」  亜子は当惑したように「入れましたか。わたしが」と言った。  百瀬は心配になった。  おそらく亜子は深い悩みを抱えている。人はストレスが強くかかると、無意識のまま行動し、それが記憶に残らないものだからだ。  百瀬は前頭葉《ぜんとうよう》に空気を送るべく。上を向いた。これは七歳の時に別れた母の教えで、 「万事休《ばんじきゅう》すのときは上を見なさい。すると脳がうしろにかたよって、頭蓋骨と前頭葉の間にすきまができる。そのすきまから新しいアイデアが浮かぶのよ」  とまあ、おまじないみたいなものだが、百瀬にとってはゲーテやニーチェの言葉より大切な座右《ざゆう》の銘《めい》なのだ。  しかし座右の銘をもってしても、亜子の悩みは見えてこない。  何しろ亜子について想像するだけの材料がない。築四十年のアパートに住む三十九歳の近眼《きんがん》男と結婚すると決心したこの希少な女性のことを、自分はまだ何も知らないのだ。  このまま結婚して良いのだろうか? 夫として責任を果たせるのだろうか?  亜子はと言えば、さきほどからちらちらと腕時計を見ている。百瀬といると退屈なので、もう帰りたいのかもしれない。  土曜の昼下がり。会ってまだ三十分も経ってない。  オフィス街の喫茶店に客は少なく、長居してもなんら問題はないが、ふたりの会話はすでに途切れた。  ウー、ウーと遠くでサイレンの音が聞こえる。火事でもあったのだろうか。  男は女が抱える問題について尋ねることができず、女は男が用意した提案を聞き出せずにいた。  すると突然、百瀬の携帯電話が鳴った。 「電話ですよー、電話ですよー」  呼び出し音は秘書の声だ。電話に出ると、当の秘書からである。 「先生、たいへんです」  ですまで言い切らないうちに、事務員の声がかぶってくる。きいきいと横で何か叫んでいる。 「今ちょっと」と言いかけると、亜子が言った。 「お仕事ですよね? かまいません。どうぞ行ってください」 「でも」 「ここは払っておきます。いいから早く行ってください」  亜子は有無《うむ》を言わさぬ言い方をし、百瀬は追い払われるように喫茶店を出た。  太陽がまぶしい。  早足で事務所に向かいながら考えた。  自分が電話に出た時の、亜子のほっとしたような目。  やはり自分といても面白くないのだ。面白くない人間となぜ結婚したいのだろう?  数百メートル歩いてから思い出した。 「たとえ女性が払うと言っても、必ず男性が払うべきです。結婚が前提のお見合いですから。それがスタンダードです。うっかり払わせてしまうと、次のお約束はないと思ってください」  これはナイス結婚相談所の七番室で亜子に何度も言い聞かされたことだ。百瀬はアドバイザーの指示に忠実に従い、必ず払うようにしてきた。  なのに今日初めてルールを破ってしまった。  しかもだいじな初回のデートで、イエローカードだ。  ひょっとすると、これは試験なのだろうか?  不合格?  やはり払うべきだ。  百瀬は数百メートルを駆け戻り、喫茶店の扉を開いた。  するとさきほどの席で、亜子がひとりショートケーキを食べている。  いつ注文したのだろう?  少女のようなあどけない瞳。大きな口でぱくぱくと、やけに楽しそうである。百瀬の正面に座っているときと全然違う顔だ。  幸福度百パーセントの少女がそこにいる。  邪魔してはいけない。  百瀬はそっとウェイターを呼び、「小松菜ジュースとブレンドとショートケーキの会計をさせてください」と言った。  ウェイターはちらっと亜子を見て、うなずくと、金を受け取った。  ほっとして、喫茶店をあとにした。  これで首はつながった。  安心すると同時に、不思議な感情がわき起こる。  お腹がほかほかするような、あたたかい感じだ。  幸せそうな彼女の顔。思い出すだけで心がなごむ。写真に撮って胸ポケットにしまっておきたい。  子どもの写真を宝物のように持ち歩き、人に見せる人間がいる。百瀬は何度かよその家族の写真を見せられた。なぜ写真など持ち歩くのだろう、家に帰ればいるのに。と不思議に思っていたが、今初めてその気持ちに近づけた。  これが家族を持つということなのだろうか?  あと二十分もすれば事務所に着くところで、百瀬は足を止めた。  焦《こ》げ臭《くさ》い。  見ると、数十メートル先に人だかりがあり、消防車が二台。一台ははしご車で、古い団地の最上階が黒く焼けただれている。消火活動は終わったようで、煙は出ていない。  赤ちゃんを抱いた女性が泣きながら「ありがとうございます」をくり返している。  どうやら助かったらしい。  ほっとして通り過ぎようとすると、救急車が停まっているのが見えた。タンカに載せられて運ばれているのは消防士だ。仲間が「大丈夫か」と話しかけ、本人は「あの人たちを頼む」と気丈《きじょう》に話している。  ちらりとしか見えなかったが、意識がはっきりしているから大丈夫だろう。  百瀬は事務所へと急いだ。      ○  男はアルコールランプの炎の先に試験管の底を当て、中の液体を見つめている。  六畳《ろくじょう》の洋間に、薬品の匂いが充満している。  やがて白濁した液体が黄色みを帯びてきた。  男は時計を見る。時間を測っているらしい。  東京郊外にある賃貸《ちんたい》マンションである。無駄のないクールな外観、内装もシンプルで、五階にあるこの一室は、八十平米の2LDKだ。  玄関脇のこの部屋には。中学校の理科教室程度の実験道具が揃っている。  ここを覗いた人間は、プルトニウムを手に入れた男が、原子爆弾を作って、世の中をあっと言わせようとしていると想像するかもしれない。  実際この男は原子爆弾を作る方法を知っている。それ以外のこともたいていは知っている。  しかし幸いなことに、この男はシンプルだ。必要ないことはしない主義で、無益な爆弾など作る気はない。実験は仕事であり、必要があってやっている。  アルコールランプにキャップをすると、男はデータを入力するべく、隣の部屋へ移動した。  そこは十二畳の洋間で、すべての壁が書物で埋まっている。窓すら書物に侵食されつつある。本のほかにはデスクとパソコン二台、そしてシングルベッドが一台ある。  床にはほこりひとつない。  男はデータを入力し終えると、もうひとつのパソコン画面を見る。ハイブリッドエンジンのシミュレーター回路図だ。3Dソフトで三百六十度回転させながら、データとにらみ合わせる。  図面を見ながら片手で煙草《たばこ》の箱に手を伸ばす。  握った箱はくしゃりとつぶれ、男はハッとしてパソコンから目を離す。  煙草がない。  立ち上がり、本棚を探すが、ない。デスクの引き出しにもない。ジャケットのポケットを探るが、ない。  男は薄手のジャケットに袖を通し、財布をジーパンの尻ポケットにねじ込んだ。  窓を見る。本に侵食された窓の隙間からは「夜」という情報が見えるだけだ。  リビングへ行った。  そこにはベランダに通じる広い窓があり、常に灰色のカーテンが引いてある。  カーテンの隙間から空を見た。ガラスの外面は五年間|拭《ふ》かれることなく、汚れが目立ち、外の様子がはっきりとはわからない。  窓を少しだけ開けて暗い外を見る。雨音は聞こえない。  閉めようとしたとき、あはは、と子どもの笑い声が聞こえた。  時計を見る。二時だ。  男はベランダに出た。裸足で出たので、足の裏にざらりとした感触がある。履物《はきもの》はない。入居以来、ベランダに出たことがない。  下を見る。  暗い公園を元気のない街灯がぼうっと照らしている。そこに女がひとり立っており、足元には子どもがしゃがんで砂遊びをしている。  夜中の二時に公園で子どもを遊ばせるなんて、どうかしている。  このマンションに入居したのは五年前だ。引越《ひっこし》の挨拶もせず、いきなり生活を始めた。隣に住んでいる人間の顔もわからない。  ひょっとして幽霊か?  考えてみると、広さの割に家賃が安い。過去、母子飛び降り心中事件があったのかもしれない。人間は奇妙な生き物だ。ついさっき笑っていたのに、十分後に死を選んだりする。  男は部屋に戻り、窓を閉めた。すると音は消えた。  外界から遮断《しゃだん》され、ほっとする。  バスルームへ直行する。シャワーで足を洗いながら、今夜は仕事をあきらめようと思う。  仕事に集中するには煙草が不可欠だ。買いに行くには、あの公園を通らねばならず、するとあのふたりに遭遇してしまう。幽霊ならばいい。生きた女子どもだったら、自分を見て、おびえるだろう。  バスルームから出ると洗面所がある。当然のように鏡が付いている。男の部屋に唯一《ゆいいつ》ある鏡だ。マットで足を拭きながら、鏡を見る。  伸び放題の黒い髪は肩まで届き、ひどくぱさついている。  手入れをしないひげが頬《ほお》と顎《あご》を覆っている。新陳代謝《しんちんたいしゃ》の激しい二十代だからか、ある程度の長さで抜け替わるらしく、顎下三センチのところで、踏みとどまっている。  髪とひげで人相ははっきりとせず、自分という気がしない。  あと数日で三十歳になる。やがて四十になり、さらに七十にでもなれば、ひげは抜ける気力もなくなり、ただ伸びるにまかせることになるだろう。  七十になったらキリストみたいな風貌になる。そう思った時、固定電話が鳴った。  ワンコールで留守電に切り替わり、相手は慣れた口調で話し出す。 「よう、沢村《さわむら》、俺。起きてるな? 六十七番の追加資料ファクスするからよろしく。六十四番の成功報酬は今月末振り込む予定。六十六番の簡易裁判はボランティアだから報酬ゼロ。バーで一杯|奢《おご》られてやった。んじゃ」  電話が切れ、ウィーンと音をたてながら。ファクスが流れてくる。ジーカタカタと音が鳴る。しばらく続きそうだ。  沢村はこの音が好きだ。人とつながっているたしかな手応えを感じて、ほっとする。  冷蔵庫から缶ビールを出す。  飲みながらリビングのソファに座り、スケッチブックを開き、鉛筆を握る。  白い画用紙には蜂《はち》の巣のような図が描かれている。よく見ると精密な迷路になっている。解くのではなく。描き足しているのだ。  沢村の唯一の無駄はこの迷路だ。誰に見せるでもない複雑な迷路を仕事の合間に作り続けている。  ファクスが止まった。  沢村は迷路を描く手を止め、床の異変に気付く。ベランダから黒い足跡がぺたぺたと横切っている。まるで泥棒が入ったようだ。  沢村はカーテンに近づき、そっと窓を開ける。耳を澄ますが、もう笑い声は聞こえない。再びベランダに出て、下を見る。  砂場に人影は無い。  今から買いに行くか。すると仕事が進む。  沢村は部屋に戻り、窓を閉めると、汚れた足で自分の足跡をたどり、再びバスルームへ向かった。      ○  新築ビルのはざまに、ひびだらけの三階建てビルが、申し訳なさそうに存在している。  一階のドアの色はショッキングイエローだ。かなり、目立つ。通りすがりの人間は、センスのよくないお絵描き教室とでも思うだろう。  ここは法律事務所である。  黄色いドアの中央に銀色のプレートがあり、そこに事務所名が刻み込まれているのだが、プレートには毎日のように「紙」が貼られており、『百瀬法律事務所』の文字が見える時間は極《きわ》めて少ない。  歩いてきた百瀬はいつものように慣れた手付きで紙をはがし、ドアを開けた。  室内を見て、ぎょっとする。  様子が変だ。  いつもは毛むくじゃらの四つ足の視線をいっせいに浴びるのだが、本日は七十センチ四方の白い段ボール箱がいたるところに積まれてあり、それらが猫の視線どころか姿さえ隠してしまっている。  百瀬は引越が始まるのかしらと思った。 「野呂《のろ》さーん」百瀬は見えない秘書を呼んだ。 「ここです、先生」  空中を移動する白い段ボール箱から声がした。顔が見えないが、運んでいるのだ。  部屋のすみにすでに三箱並んでおり、その上に一箱を載せた野呂|法男《のりお》は、腹が突き出た六十歳である。やれやれと腰を叩きながら振り向き、言った。 「引越ではありませんよ」  さすが秘書だ。百瀬の心中を見抜いている。 「七重《ななえ》さんの買い物です」 「違いますよ!」  黄色い声が響く。仁科《にしな》七重だ。ドアを正義と自由の色に塗った事務員である。  こちらも姿は見えない。段ボールがこれだけあると、かくれんぼで鬼になったらたいへんだ。  声を手がかりに近づき、とうとう七重を見つけた。  七重は狭いキッチンで分別《ぶんべつ》ゴミを散らかしている。 「散らかしているんじゃありませんよ」  七重も百瀬の心中を見抜いている。取り乱していても、さすが女だ。五十歳。女のベテランである。 「探しているんです」と言いながら、古新聞と古雑誌をしばってあるビニールひもをハサミで切った。 「何を探しているんです?」 「雑誌です」 「ハサミで切らなくても」  百瀬は言いながら、まだ切られていないひもの結び目をすっと引っ張って解いた。 「こうして取れる結び方なんです」 「早く言ってくださいよ!」  百瀬は立ち上がった。事情は野呂に聞いたほうがよさそうだ。  しかし野呂も忙しそうで、五箱目を運んでいる。百瀬はしかたなく六箱目を持ち上げた。そこそこ重たい。運びながら考えた。  家庭っていったいどういう機構なのだろう?  七重を見ていると、家庭のイメージが根本から覆《くつがえ》される。  彼女は二十歳で結婚し、主婦歴三十年である。なのに、日本茶をおいしくいれるコツも知らず、ゴミの分別すら苦手で、いつも最後は百瀬がまとめたり、しばったりしている。  百瀬が子どもの頃からいくども想像した家庭では、母親が家事の采配《さいはい》を握り、料理も洗濯も手際良く片付ける。その上でケーキを焼いたり、パッチワークでピアノカバーを作ったりして、夜は子どもにおやすみのキスをする。キスやパッチワークは高望《たかのぞ》みだとしても、ゴミの分別など、おてのもののはずだ。  実際の家庭は百瀬が想像するほど夢の世界ではないらしい。 「暗くなりますが、この窓はあきらめましょう」  野呂はそう言って、六箱目を載せた。 「これはいったい」 「キャットタワーです」 「ほかは?」 「キャットタワーです」 「全部? 十箱全部?」 「キャットタワーです。天井に届くタイプのデラックスサイズです。支柱は突っ張り棒になっており、よくできたもので、猫が駆け上がっても倒れない設計です。ステップ台が六枚。そのうち二枚はご丁寧《ていねい》につめとぎ付きで、さらにボックス型ベッドも付いています」  野呂は仕様書を見せた。一箱開けて、取り出したらしい。  組み立て方が載っており、仕上がり予想図もあって、イラストでは猫が三匹乗っている。 「うちの事務所には現在猫が十匹います。一匹に一御殿という贅沢《ぜいたく》です。七重さんがこんなに猫好きだとは知りませんでした」 「わたしが注文したのは一台です!」  七重は立ち上がって叫んだ。 「何かの間違いですよ」  百瀬は思った。ひょっとしたら自分のせいではないか。  注文通りこない自分の宿命が事務所にも波及《はきゅう》したのかもしれない。 「あった!」  七重はぶあつい雑誌を手に走ってきた。有名な通販会社のカタログである。  七重はカタログを開いて見せた。 「これです。二万三千円が特別価格で一万七千円と書いてあるでしょう? しかもここを見てください。猫トイレ掃除用のスコップがおまけに付きます。今使っているスコップにヒビが入って、そろそろ買わなきゃと思っていたところです」 「スコップなら百円均一で充分でしょう」  野呂は冷たく言い放つが、七重も負けてはいない。 「そりゃあわたしだって、もし家のスコップが壊れたら、百円ナントカに行きますよ。でもね、これは職場の道具なんです。オフィス用品ですよ。経費で買えるものを百円で買う必要がありますか?」  百瀬が遠慮がちに口をはさんだ。 「七重さん、スコップもほら、ここに載っています。五百円で買えますよ」 「よく見てください。送料が三百円かかるんです。町で百円で買えるスコップが八百円になってしまいます。一方、一万円以上の商品は送料無料です。わたしはちゃんと事務所のことを考えて、主婦感覚を研ぎすまし、お得なキャットタワーを注文したのです。送料無料で、おまけにスコップが手に入る。お得です」  百瀬は野呂を見た。  野呂は顔を左右に振った。  これ以上話を進めてもかみ合わないというサインである。 「間違いだから、返品しますよ」七重は胸をはって言った。 「注文は電話で?」百瀬が聞くと、七重は答える。 「いいえ、本のここ、ここに付いている葉書《はがき》で申し込んだんです」  ページの間に葉書を一枚|剥《は》がした形跡がある。未使用の葉書がもう一枚あり、百瀬はそれを見て、原因を推測した。 「ここに何を書きました?」 「商品番号です」 「商品番号は」 「10ですよ」 「ここは個数を記入するところです」 「え?」  七重はポケットから老眼鏡を取り出してかけた。  個数と書いてある。たしかここに10と書いた記憶がある。そういえば商品番号を二回書き、念を押されたような気がした記憶がある。 「代金は?」と百瀬が尋ねると、「さきほどキャッシュで払いました」と野呂が領収書を見せる。 「代引手数料三百十五円を含め。十七万三百十五円です」  七重は叫んだ。 「わたしは払っちゃだめだと言ったんです。何かの間違いだから、払っちゃだめだと」 「ここは法律事務所ですよ」野呂はたしなめる。 「納品書を確認しましたが、たしかなものでした。老舗《しにせ》の通販会社ですし、届けた宅配業者も大手です。注文したものが注文通り届いて支払いを拒否するだなんて、法律事務所の看板を出しているうちがそんなこと、できませんよ」  すると百瀬は言った。 「よくありましたね、うちの事務所に現金が」 「あるわけありませんよ」  野呂は腰を落とし、もう一箱抱え、立ち上がった。 「たまたま持ち合わせがあったので、立て替えておきました」 「十七万も? 現金で?」 「十七万三百十五円です。いつもは財布に五千円札一枚あるかないかですがね、本日必要があって昼休みに銀行でおろしたところで」 「それではお困りでしょう。今すぐわたし銀行に行ってきます」 「結構です。来月の給料に上乗せします。どうせ経理はわたしの仕事なんですから」  七重は野呂の言い分を恩着せがましいと感じた。つっぱねたい気持ちはあるものの、自分の給料から引いてくれとは言えなかった。そのかわり、提案した。 「クリーニングすればいいんじゃないですか。ほら、何日以内だと取り消しにできる法律があるでしょう?」  野呂が解答した。 「クーリングオフのことですか? 訪問販売などに適応される制度で、通信販売には原則としてありません。それにほら、特別価格の商品で、返品は受け付けないと書いてあります」  七重は手に持っている雑誌を見た。赤字ではっきりとそう書いてある。 「この事務所にタワーを十本建てたら歩けませんな」  野呂の嘲笑に七重は唇をかみしめて百瀬を見た。  百瀬は気の毒そうに七重を見つめている。負債をかぶるのはボスなのに、当のボスに同情されているのが七重には情けない。  七重はおずおずと言った。 「先生」  百瀬は七重があやまるのだろうと思い、「気にしないで」という言葉を用意した。ところが、七重は思いがけない言葉を発した。 「なぜ貼り紙をはがしたんです」  百瀬は自分の右手を見た。さきほどプレートの上に貼られていた紙で、どうせ『ねこべん』というらくがきだと思い、確認もしなかった。見ると、違う。 『はりがみ厳禁』と書いてある。 「これは……」 「今朝わたしが書いて貼っておいたんですよ」 「ごめんなさい」  結局百瀬があやまった。  そしてデスクに座った。箱は野呂と七重に任せて、仕事を進めておこう。  パソコンを立ち上げ、メールをチェックする。  一件、心当たりのないアドレスからメールが届いている。  百瀬先生へ  はじめておたよりします。ぼくはタイハクオウムが心配で、昼も眠れません。タイハクオウムが無事か、見に行ってくれませんか。名前は杉山《すぎやま》と申します。山田《やまだ》の杉山への愛は冷めてしまったものと思われます。愛をなくしたら生きてはいけません。ぼくは杉山の行く末が心配なのです。彼の様子を見てきてください。行くと約束をしてくれたら着手金として五十万払います。杉山の様子を写真付きで報告していただけたら、さらに報酬金五十万支払います。報告はすべてメールでお願いします。ぼくは猫弁先生が正義の味方だと信じています。 [#地付き]透明人間より  百瀬はアドレスを検索したが、過去に一度もやりとりのない人間だ。 「野呂さん、うちの事務所のホームページを作成したのは三ヵ月前ですよね」  野呂は七箱目を運びながら言った。 「四月七日です。鉄腕《てつわん》アトムの誕生日です。アドレスを載せたのは間違いでしたね。いたずらメールが殺到《さっとう》しました。今は電話番号しか載せていません。しかし依頼は相変わらずペット関連ばかりですよね。ホームページ閉じましょうか」 「アドレスを載せていたのはたしか三日間ですよね」 「四月十日ビートルズ解散の日にアドレスを削除しました。何かありましたか?」  野呂はパソコンモニターを覗き込んだ。メールを読み、しばらく考えたのち、言った。 「悪文ですな。意味不明です。心配で昼寝もできない? ふざけてます。第一、この透明人間て奴は、山田ですか、杉山ですか?」 「どちらでもないでしょう。おそらく杉山はタイハクオウムの名前で、山田はその飼い主と思われます。筆者はおそらく第三者的立場であり」 「宅配がなんですって」  七重が古雑誌と格闘しながら叫ぶ。  百瀬が返答する。 「タイハクオウムです。オウム目インコ科のオウム属で、白い羽毛で覆われています。インドネシア固有種ですが現在はアメリカから輸入されるのがほとんどです」 「またペット問題ですか」  七重があきれると、野呂は言った。 「キャットタワーが十本あれば、ここはもう密林《みつりん》です。タイハクオウムとやらには住みやすい事務所となりますな」  このジョークに百瀬も七重もハッとした。  気まずい空気に、野呂は後悔した。ありえないことはジョークになるが、ありうることは予言になってしまう。悪い予言だ。  場をとりつくろうために、野呂はこう発言した。 「とにかくメールに返信してみましょうよ。いたずらなら金は振り込まれません。振り込まれてから考えればいいじゃないですか」  すると百瀬は「おっしゃる通りです」と言いながら、すばやくメールを打ち始めた。  野呂と七重は目を見合わせた。  ふたりにはわかっていた。ボスは心配なのだ。タイハクオウムの行く末が。  いたずらではなかったら、どうするのだろう?  事務所がジャングル化する日を想像し、ふたりは仲良くためいきをついた。      ○  蕎麦屋《そばや》の二階の窓際の席で、大福亜子は冷やしたぬきを食べている。  クーラーが心地よい。さきほどから携帯が振動しているが、あとふたくちすすってから見よう。昼休みはきっちり一時間しかなく、あと五分で食べ終わり、十分後にはオフィスに戻っていなければならない。  向かいのビルの二階の窓を見る。雪だるまのようなシルエットの女がいて、こちらに手を振っている。亜子と同じピンク色の制服を着ている。後輩の寿春美《ことぶきはるみ》だ。  亜子と春美が勤めているナイス結婚相談所では、職員同士外で会ってはならないという社内規定がある。うっかり客のプライバシーをしゃべってしまい、ほかに漏れれば、情報サービス業としての信頼を失うからだ。  春美は体型に反して繊細《せんさい》なところがあり、ひとりで外食できないという。ビルの屋上でランチをつき合っていたが、さすがに七月の日差しに堪《た》え難《がた》く、今はこうして別々に食事を摂《と》りながら、携帯メールで会話をしている。  会話は店に入ってから次のように続いている。 「初デートどうでした?」 「順調」 「どこで待ち合わせ?」 「喫茶店」 「それからどこへ行きました?」 「喫茶店だけ」 「だけ?」 「だけ」 「もりあがらなかったんですか?」 「順調」 「いったいあいつとどんな話をするんです?」 「緊張してなに話したか覚えてない」 「先輩、緊張するんですか?」 「する」 「三年間もほぼ週一密室できっちり三十分話してたじゃないですか」 「それは仕事でだから。プライベートは別。時計が気になって」 「時計?」 「三十分で切り上げる癖がついてて、三分経過、五分経過ってつい時間を読んでしまう」 「時計ばっか見てたら、相手傷つきますよ」 「ひょっとしてきらわれたかな?」 「かもしれません」 「がーん」 「うそですよ、猫弁には人を嫌うという回路はありません、きっと」 「そうよね」 「スキャンダルの続報聞かせてくださいよ」 「スキャンダル?」 「会員と関係を持つなんてスキャンダラスです」 「会員をやめたあとです」 「だってあいつのこと好きだったんでしょう?」 「会員になる前からです。第一関係なんて持っていません」 「婚約は最強の関係ですよ。結婚より強い絆《きずな》です」 「結婚が最強でしょう?」 「常務のデータ覗いたんですけどね。うちの会社で成立したカップルの離婚率は」 「シークレット情報は聞きません」 「先輩、ちゃんと幸せつかんでくださいね」 「人の恋愛より仕事がんばりなさい」 「仕事の参考に聞いているんです。実は今猫弁とそっくりな会員を担当してるんです」 「弁護士?」 「アパート経営者で土地持ち」 「どこがそっくりなの? 顔?」 「誰でもいいって言うんです。女性への条件無し」 「そんな人ほかにもいるんだ」 「都内に合わせて五百坪の土地所有。二百平米の日本家屋でひとり暮らし。アパートは築四十年。借り手はいるんだかいないんだか。家賃収入より固定資産税のほうがかかっていると予想される。取り壊してテナント募集したほうが儲《もう》かると忠告したところ、アパートは御神木《ごしんぼく》みたいなもので、魂が宿ってるから壊せないと返答。返答に信憑性《しんぴょうせい》無し。趣味は語学。スペイン語、韓国語、フランス語、イタリア語は日常会話レベル。現在中国語に挑戦中であるが、飛行機は苦手だから海外旅行の経験は無し」  長文メールを読むのが精一杯で、亜子は返事を返せずにいた。  春美はハンバーガーを食べているため、片手で自由自在にメールが打てる。 「妻とは四十年前に死別」 「その人いくつ?」 「七十二歳」 「その年齢ならぎりぎりお相手いるでしょう」 「高齢の女性は意外と若い男性を望んでいるんです」 「そうだったわね」 「わたし。亜子先輩みたいに、立候補しようかな」 「コラ!」  その後返信がないので向かいのビルを見ると、春美の姿はない。ハッとして時計を見ると、あと二分で午後の始業時間だ。亜子はあわてて店を出た。      ○ 「写真を撮りたいって? 取材か?」  山田サトシは怪訝《けげん》そうな顔でキッチン横のモニター画面を睨みつける。  マンション一階の入り口のインターホンの前に、黒い丸めがねの男が立っている。ぼさぼさ頭だ。見覚えがない顔である。 「取材ではありません。わたしは弁護士の」  丸めがねが言い切らないうちに山田はボタンを押し、オートロックを解除した。  弁護士。心当たりはうんざりするほどある。一階フロアでべらべらと内容を説明されても困る。  ここは十五階だ。数分で丸めがねは玄関のチャイムを鳴らすだろう。  別居中の妻からの離婚訴訟か? それとも、学歴|詐称《さしょう》がばれた?  あざやかな青いジャケットを着た山田は、意外にもあっさりと「入れ」と言った。  百瀬は名刺を出しかけたが、しまった。山田がさっさと奥に行くので、ついていく。  リビングに着くと、山田は部屋の中を行ったり来たりしながら、時おり窓から外を見たりして、落ち着きがない。  百瀬はしかたなく立ったまま用件を言った。 「タイハクオウムはどちらにいますか?」  すると山田はほっとしたような顔で立ち止まった。 「なんだ杉山のことか? 少額訴訟の件なら済んだ。一度決定したことは覆せないって二見《ふたみ》先生は言ってたぞ」 「二見?」 「二見|純《じゅん》先生」 「二見純?」 「あんたテレビを見ないのか? 二見弁護士だよ。法律王子。今日本で一番有名な連勝負け無しの孤高のヒーローじゃないか」 「はあ」 「番組で顔なじみなんだよ。相談したら、簡易裁判でカタが付くって、ひと晩持ち帰ってさらさらっと訴状を書いてくれたんだ。おかげで弁護士雇わずに決着がついたよ。持つべきものは弁護士の友人だな」 「訴訟の内容は」 「あと三十分でここを出ないと、スタジオ入りに間に合わない。説明してる暇はないよ。杉山の写真を撮りたいんだろ? さっさと撮って出て行ってくれ」  山田は奥の部屋に百瀬を案内した。  ドアを開けた途端、粉っぽい臭いが鼻をつく。鳥のフンの臭いだ。  日の当たらない物置部屋。その片隅の床に、大きな鳥かごか置かれている。  そこにタイハクオウムはいた。一瞬|剥製《はくせい》かと思ったが、かすかに頭を動かし、こちらを見る。  白い羽根、黒いくちばし、小さな丸い目。虹彩が黒いから、オスだ。  毅然《きぜん》と背筋を伸ばしている。  牢獄《ろうごく》にいたマリー・アントワネットはこんな感じだっただろう。  鳥かごは贅沢《ぜいたく》な品だ。最初は大切にされていたらしい。  フンの山を見て、百瀬は現況を察した。  山田はいらいらと腕時計を見ながら、言った。 「なんで弁護士がオウムの写真を撮りに来るんだ?」 「依頼人がタイハクオウムの様子を知りたがっているので」 「ファンか? ちゃちゃっと写真を撮って、帰ってくれ」 「水、あげてもいいですか?」 「は?」 「水入れがカラです。おそらく二日は飲んでないでしょう」 「あんた、弁護士じゃないな?」 「鳥かごの掃除もさせてください。エサもこれ、あるように見えますが、殼ばかりですよ。このままではじき……」 「じき、なんだ?」  百瀬が言葉を選んでいると、叫び声がした。 「アホ、ボケ!」  叫んだのはタイハクオウムだ。 「オレハ死ナン。ゼッタイ死ナンデ! オエオエ」  オウムの毒づきに、山田はキレた。 「ああっ。むかつく! これだよこれ、杉山は変わってしまったんだ。すべて相沢のせいだ。相沢が杉山に下品な大阪弁を仕込んだんだ。俺を番組から降ろしたいんだ。陰謀《いんぼう》だ」 「訴訟の内容を教えてください」 「時間がないと言ってるだろう? 今日本に気象予報士は八千四百二十二人いるんだよ。遅刻なんかしてみろ、一発でクビになる。知ってるか? 気象予報士は働く場がない。気象庁に入るには公務員試験に合格しなくてはいけない。あいつらエリートは、予報士の資格なんか要らない。たいした学歴もない俺のような人間は、制作会社に泣きついて、ワイドショーで五分のコーナーをもらって首をつないでいるんだ。毎年かわいい女の子がオーデションを受けに来る。かわいい顔して頭も良くて、資格試験にすっと受かって、しかも高学歴だ。おっさん予報士は次々降ろされる。俺たちが生き残るには差別化なんだよ差別化!」  時間がないというのに、山田はすっかり興奮して、日頃のうっぷんをはらすべく、しゃべり続けた。 「四十二万も出してこいつを手に入れた。芸を仕込み、そこそこ受けてたんだよ。なのに、ああ! 出張中相沢にこいつの世話を頼んだら」 「相沢さんというのは」 「番組のADだよ」 「ジャカアシ! タノマレテモクルカ!」 「この通りさ。テレビに出せるか? 相棒《あいぼう》失格。四十二万がドブさ。愚痴《ぐち》ったら、二見先生が、器物損壊と営業妨害で六十万は取れるって言う。先生が書いてくれた訴状で少額訴訟の手続きをしたら、あっさり通って、相沢は十回分割で払うと言った」 「オレニモンクアルンカオマエラ! ピシュ、ピシュ、ドスドスドス!」  山田は半泣きで言った。 「ひどいでしょう? この悪態。もう俺、こいつ殺したい」 「キ、ヨ、タ! キ、ヨ、タ!」 「うるさい!」 「アダチ、アダチ、オエオエ」  百瀬は天井を見た。前頭葉にたっぷりと空気を送ったあと、タイハクオウムに近づき、「そうか、お前」とつぶやいた。      ○  真夜中のコンビニエンスストアに客はひとりしかいない。  沢村はおにぎりふたつをわしづかみにし、レジに置いた。ニコチン切れで指がかすかにふるえている。  店員は後ろの棚からマルボロ二カートンを取り出し、おにぎりと同じ袋に入れた。  ひげ面の男の名が沢村だということも、ダイナマイトを作る知識があることも、店員は知らない。しかしニコチン中毒で、マルボロ二カートンを五日に一度買いに来ることは知っている。半径五キロメートル以内でもっとも沢村を理解している人間と言っていい。  沢村はこの店が気に入っている。ひとこともしやべらずに、お気に入りの煙草が買える。  バイトの顔が替わっても、必ずマルボロを出してくれる。この店の接客マニュアルに「夜中にひげ面の男が来たらマルボロ二カートン」と書かれてあるのかもしれない。  釣り銭をもらい、出口に向かうと、雑誌売り場の文字が目に入った。 『連勝! 法律王子』  でかでかと赤い文字で書かれている。  沢村は店を出た。  公園にさしかかった時、人がいるのではないかと警戒した。だが、行きに通った時同様、無人だ。ベランダから見えた母と子はいない。  幻覚だったのだろうか。いよいよニコチン中毒患者になってしまったのかもしれない。  沢村は人がいないことに安心し、すると我慢《がまん》ができなくなった。マンションは目の前だが、待てない。  立ったまま外箱を破り、煙草を一箱取り出し、封を切る。一本、砂場に落ちた。二本目はうまくつかめた。火をつける。  ふ—————。  吸うと心が落ち着く。酸素とニコチン、どちらを選ぶと聞かれれば、迷わずニコチンと答える。無酸素状態、ウエルカムだ。  ベンチに座った。ここで一本を吸い切ろう。  マンションが建ち並ぶ住宅街。その隙間にあるせせこましい公園。  すべり台が一台、ブランコがふたり分、タイヤで作った遊具、それらを街灯の光がぼうっと照らしている。丸い砂場が中央にあり、シャベルが一本、刺さっている。  シャベルを眺めているうちに、沢村には昼間の残像が脳裏に浮かんだ。  おしゃべりする主婦たち。砂場で遊ぶ幼児たち。  その時、声が聞こえた。 「夜もいたんだね」  見ると。黄色いスカートをはいた女の子が、公園の入り口に立っている。  ハッとした時にはもう、女の子は駆け出して、あっという間に沢村に近づき、前に立ちはだかった。沢村はとっさに立ち上がる。  逃げ出したい。  しかし女の子はあまりにも正面に、しかも至近距離に立っている。体に触れずに逃げるのは難しい。  沢村は煙草を挟んだ指を背中にまわした。女の子の顔に煙がかからないようにだ。  結果的に、喫煙《きつえん》を見つけられた中学生のような格好になる。  沢村は鏡の中の自分を思い出す。肩まで届く髪、顔を覆うひげ。  こんな男を見て、女の子は怖くないのだろうか?  白くてふっくらと、やわらかそうな頬をして、小さい目をぱちっと開け、驚いたような顔で沢村を見上げている。 「すみません」  か細い声がした。女の子の背後に女がいる。ベランダから見えた母子だ。沢村は目をそらす。女の顔を見る勇気はない。  女は沢村の足元から何かを拾い、沢村に差し出した。  マルボロの箱だ。いつのまにかひと箱、落としてしまっていた。  沢村は女の指にふれないよう、細心の注意を払って受け取った。 「こんな夜中に大声を出して、だめって言ったでしょう?」 「だっておかあさん、夜なのに、いるんだもん」  沢村は困惑した。  夜なのにいておかしいのはそっちだろう、子どものくせに。  すると女はふふふと笑い、沢村の背後を指差した。  後ろを見た。  ひまわりだ。背の高いひまわりが一輪、大輪を咲かせている。  女の子はひそひそ声で言った。 「夜もいたんだね」 「さっきは気がつかなかったね」  母親と女の子は並んでひまわりを見つめている。  どうやら「夜もいた」のはひまわりで、沢村のことではないらしい。  女の子は小学校に上がってないだろう。五歳くらいだろうか。 「夜になるとみんな帰っちゃうのに。ひまわりは帰らない」  女の子は満足そうに言った。  沢村は砂場を見た。忘れ物のシャベルが相変わらず刺さっている。昼間の残りもの。まっとうな人間の忘れ物だ。  シャベルの横に煙草が一本落ちている。さっき自分が落とした煙草だ。その近くにきらりと光るものがあった。鋭いガラスの破片だ。  沢村は煙草とガラスを拾い、ポケットにしまうと、袋をぶら下げて歩き始めた。 「ばいばーい」  女の子が後ろで叫んだ。続いて「シッ」という、母親の声が聞こえた。  沢村は振り返らずに公園を出て。そのままマンションに向かった。  背中にひりひりするような感覚があった。  少年の頃の夏を思い出す。海水浴に行ったあとの皮膚《ひふ》の痛みに似ている。  あの頃、夜は寝ていた。そんなことに気付いた。      ○  七重は十五インチの小型テレビを真剣に見つめている。  午後二時から始まるワイドショーの司会者は、つばを飛ばさんばかりに声をはっている。  話題は力士《りきし》のマワシの色である。  ある外国人力士がショッキングイエローのマワシをつけて土俵に上がったところ、大相撲《おおずもう》ご意見番の大作家が「良識に欠ける」と注意したが、翌日も同じマワシで相撲をとったので、横綱審議委員会が緊急会議を開き、「厳重注意にとどめるか、欠場させるか」と話し合っている。  この件につき、街頭で世論を集めたり、コメンテーターが眉根《まゆね》をよせて意見を述べたりしている。  不思議なことに、世論もコメンテーターも意見は分かれることなく「良識に欠ける」で統一され、「親方の指導力のなさ」を指摘する点も同じだ。ワイドショーはシナリオに沿って進行されるのだろう。  ところが七重にシナリオなど通用しない。 「素敵な色じゃないですか。正義と自由の色ってこと、みんな知らないんですかね」 「大相撲と自由は相反するものですからね」  野呂はしたり顔で答えるが、七重は納得しない。 「かわいそうに。異国に来てがんばって、日本語覚えて、ちょんまげ結って、たかがふんどしの色に文句ですか?」 「ふんどしではなく、マワシです。締め込みとも言います。力士規定第四条に十両以上の力士は黒、紺、紫系統の締め込みをすることと書いてありますから、作家の言い分も間違いとは言えません」 「お相撲にも六法全書があるんですか」 「六法では」と言いかけて、野呂は話を変えた。 「そろそろテレビを消したらどうですか? 勤務中ですよ」 「このあとの『テレフォン法律相談』が見たいんです」  七重は働いてますと言いたげに、猫トイレの砂をスコップでかきまわす。乱暴に使ってもかまわない。おまけの新品が十個もあるのだ。  野呂は九つの段ボール箱を見てためいきをつく。  窓をすっかりふさいでしまい、事務所内の照度は低い。そのぶん電気使用量は微増し、頭が痛いが、片付くあてがない。  一箱は開封し、組み立ててある。七重が組み立てたが、何時間経っても見本通りにはならず、やけにまっすぐな棒が天井まで届き、ボックス型ベッドが一台、まるで鳥小屋のように上のほうにあるだけで、ステップ台は六枚とも段ボールにしまったままである。 「不良品です」と七重は断言し、百瀬や野呂が手伝うのを許さない。  猫たちはキャットタワーに見向きもせず、箱の山がお気に入りだ。 「お待たせしました! 法律王子・二見純の『テレフォン法律相談』のお時間です!」  十五インチのテレビで司会者が叫んだ。効果音が響き、ひとりの男が登場する。  おしゃれなヘアスタイル、高そうなスーツを着て、いかにもタレント然としている。カメラ目線もばっちりで、視聴者からの素朴《そぼく》な問いに、サービス精神たっぷりの口調で答えている。 「なんですか、この男は」  野呂の問いに、七重は答える。 「このあいだ同窓会がありましてね。商業高校の。そこでみんなに聞かれたんですよ。弁護士事務所でどんな仕事してるの? って。みんなわたしのことがうらやましいんです」  野呂は不安になった。自分の質問は法律王子とやらについてなのだが、果たして七重はその答えを持っているのだろうか。 「今さら猫の世話とは言いにくいですからね。お茶を出したり、ひっこめたり、トイレットペーパーを替えたり、ドアの管理も任されていると説明してですね、するとみんなが言うんです。あんたんとこの弁護士先生、二見純みたいにかっこいいの? って。  そのときわたしは二見純を知りませんでしたがね、言ってやりました。そりゃあ、一流の頭を持った人は、みんなかっこいいものですと。わたしはね、うそはついちゃいませんよ。百瀬先生は長いこと独り身でしたが、お相手も見つかったらしいし、男としてそう駄目なわけではないと思うんです。  でもその、なんですか、二見純、ってのが気になって、調べたんです。こういったワイドショーだけじゃなくて、ニュース番組にも出ています。なぜうちの先生はテレビに出ないんですかね? この二見純だって、ひとりでやっているんです。なのに、羽振《はぶ》りがいいんです。なんでも、大きな事件をすーっとうまいこと片付けてしまうらしいんです。あの四葉《よつば》自動車の不祥事も、ばしっと片付けたっていうじゃありませんか。難しいなんとかエンジンや、化学の知識なんかも頭に詰まっているらしくって、裁判で負け無し、ってみんなが言ってました。わたしはなんだかくやしくてですね」  七重はテレビ画面を睨みつけた。  二見純は栗色《くりいろ》の髪が規則正しく波打っている。 「どこか欠点を見つけてやりたいんですが、見た目はうちの先生の負けです」 「タレントみたいですな。うさんくさい」と野呂は言う。  七重は大きくうなずいた。 「この番組はうさんくさいんです。こないだなんか、お天気コーナーで、男がでっかいインコを肩に乗せて登場したんですよ。キョウノコウスイカクリツハ? とインコが言うと、男が一〇パーセントです、と答えるんです。インコを肩に乗せた男に一〇パーセントと言われても、わたしは傘を持って家を出ますよ。すぐにインコはいなくなりましたがね。クレーム殺到したんじゃないですか。わたし、インコは大嫌いです。鳥のくせにアンモニアみたいな顔で」 「アンモニア?」 「ほら、かたつむりみたいな」 「アンモナイトですか。まあそう言われてみれば」  そのとき、事務所のドアが開いた。  入ってきたのはボスの百瀬で、段ボール箱を抱えている。  七重は叫んだ。 「先生、その箱は何ですか? 事務所をこれ以上狭くする気ですか?」  こんなことを言われたら、普通の人間は「十箱は誰のせいだ」と言い返すところだが、百瀬は普通とはかけ離れた天才なので、そのような思いはちらっとも浮かばない。 「いいえ、この箱は一過性のものです。まこと先生に連絡したので、まず診てもらって」  百瀬は息切れして床に段ボールを置いた。 「十一匹目ですか! 今度は黒猫? 白猫?」  七重は段ボール箱の蓋《ふた》を開き、覗こうとした。 「七重さん、待って」  百瀬の声は間に合わなかった。  バサバサッと音がし、七重は強く頬をはたかれ、尻餅《しりもち》をついた。  白いドレスを着たマリー・アントワネットは女王の気位をもって、七重の頭頂部《とうちょうぶ》をぽーんと蹴とばし、羽ばたいた。  しかしその飛行は優雅《ゆうが》とは言えず、長い牢獄生活の末、いかにも久しぶりに飛んだという風情で、非効率的に羽根をバタバタと動かし、事務所内を迷子のように旋回《せんかい》すると、キャットタワーのボックス型ベッドにたどりつき、もさもさと中に入った。  事務所内の猫たちは危険を感じ、いっせいに身を隠した。  七重は心臓がどきどきし、尻餅をついたまま何も言えない。 「怪我はないですか、七重さん」  百瀬はひざまずき、七重の顔を覗き込む。 「…………」  今はそっとしておいたほうがよさそうだ。  野呂を見ると、薬を口に放り込み、お茶で流し込んでいる。助かった。落ち着いている。 「野呂さん、実は」  野呂はてのひらを百瀬に向け、言葉を制した。その後ゆっくりと椅子《いす》に座り、言った。 「今血圧を下げますので、しばらくお待ちください」 「猫が狙いませんか。危険ですよ、ここで飼うのは」  血圧が下がった野呂は常識的意見を述べた。 「鳥かごが必要ですね」  百瀬は通信販売のカタログをめくる。  七重は立ち上がりながら低い声で静かに言った。 「インコはアンモニアです」  七重が静かにものを言うときは、噴火《ふんか》の前兆であり、気をつけるべきなのだが、百瀬はカタログに気をとられ、七重の怒りに気付かない。 「やはりそう見えますか? わたしも似てると思ったんです。このオウム、フランス王妃アントワネットのような気品がありますよね」 「先生、七重さんはアンモナイトに似ていると言いたいのです」  野呂が言い切らないうちに、七重は言った。 「透明人間に送りつけてやりましょう」まだ声は低い。 「ええ、もちろんです」百瀬は即答した。「写真を撮って、透明人間に送ってあげましょう。杉山の元気な姿を見たら安心なさると思います」  七重の声はいきなり裏返った。 「写真じゃありません。こいつを宅配便で送りつけてやるんです」  言いながら、七重は足をどすん、どすんと踏みならした。 「インコは嫌です! 猫より嫌です!」  あまりの剣幕《けんまく》に、野呂は思わず吹き出した。 「この怒りようは、まるで赤毛のアンですな」  野呂の愛読書は『赤毛のアン』で、全十巻揃えている。 「理想の女性は?」と聞かれれば「アン・シャーリー」と即答するほどぞっこんだが、誰も野呂に理想の女性像を尋ねないので、発言したことはない。  しかし七重は『赤毛のアン』など知らない。笑っている野呂があまりにも呑気《のんき》に見え、怒りが増幅した。  七重は興奮しながらデスクの紙にサインペンで何やら書き、百瀬に見せた。 『鳥弁もはじめました』と書いてある。意外と達筆だ。 『表に貼りましょうか?』と脅すように七重が言うと、野呂はさらに笑った。 「弁当屋みたいですな」  そのとき、叫んだ。 「ナンヤオマエラ、ドツイタルワイ!」  叫んだのはタイハクオウムである。 「タノマレテモクルカ! ジャカアシ! オエオエ」  あまりの毒舌《どくぜつ》に、七重は口をつぐむ。  チャイムが鳴って、ドアが開いた。 「今度の依頼人はナニワのやくざか? 外まで聞こえるぞ」  入ってきたのは白衣を着た美人で、獣医の柳まことだ。背が高く、小麦色の肌。白い歯が行儀良く並んでいる。  十分後、まことの左腕にタイハクオウムは止まっていた。美人に遠慮があるのか、いくぶんおとなしい。 「やや栄養不足だ。それともう少し日光に当てたほうがいい」  まことは窓を塞いでいる段ボールを不審そうに見た。 「まこと動物病院で、キャットタワーは売りませんか?」  野呂が言うと、まことは頭を横に振った。 「ペットグッズはいっさい扱ってない。それを始めると売り込みがうるさくてね」 「じゃあ。お願いしている里親《さとおや》募集に、猫一匹につきタワー一本付けます。って条件を付加してもらえませんか」 「それはできない。タワー欲しさに里親を名乗り出て、タワーを手に入れて転売し、猫は捨てる、なんて馬鹿が現れる」 「なるほど」 「こういう仕事をしてると、警戒心が強くなる。人間の醜《みにく》さを想定しないと、動物を守れない」 「性悪説ですな」 「性善説で生きている人間もいるけどな」  まことは百瀬を見た。  百瀬はデジタルカメラで懸命にタイハクオウムを撮っている。  まことは百瀬に言った。 「オウムの行く末を案じているその透明人間とやらはどこの誰だ」  百瀬は撮った画像を確認しながら答える。 「住所も氏名も電話番号も不明です。しかし着手金は振り込まれていました。正式な依頼には違いありません」  野呂は帳簿を見る。 「法律事務所への依頼として不適格な内容ではありますが、金払いは良さそうです」  さきほどから七重が発言しないのは、いないからである。  十分前、まことが来訪してすぐに口笛を吹き、タイハクオウムが飛来すると、七重は青い顔をして「お先に失礼します」と言い、出て行ってしまったのだ。  まことは言った。 「オウムの里親はなかなか見つからないぞ」  すると百瀬は言った。 「里親は探していただかなくて大丈夫です。透明人間は喜んで杉山を引き受けてくれるでしょう」 「オレハ死ナン! ドスドス、ピシュピシュピシュ」 「いったいどこでこんな言葉を覚えたんだ?」 「飼い主の山田サトシさんは地方ロケがあり、留守の間、杉山の世話をADの相沢さんに頼みました。合鍵を渡し、エサとフンの始末を頼んだのです。山田サトシさんはロケから戻ると通常通り、杉山とワイドショーに出演しました。本番中に杉山が毒づいたため、山田サトシさんは番組を降ろされました。三つのレギュラーのうち、二つをクビになり、激怒した山田サトシさんは、少額訴訟を起こし、相沢さんから六十万を受け取ることになりました。営業妨害と慰謝料で六十万という訴状に、相沢さんは異をとなえなかったそうです」 「その相沢ってADは山田サトシに恨みでもあるのか?」 「相沢さんに悪意はないと思います。おそらく映画を見ただけです」 「映画? どこで?」 「山田サトシさんの部屋です。リビングには高画質のプロジェクターと大きなスクリーンがありました。映画館のような雰囲気でDVDを見ることができます。わたしが伺ったとき、杉山は別室にいましたが、リビングの天井にはフックがありました。毒づく前はその部屋に鳥かごがあったはずです。相沢さんは杉山の世話をする際に、好きなDVDを持ち込んで、何度も見たのでしょう。その時、杉山はセリフを覚えてしまったんです」 「なぜわかる?」 「杉山がしゃべっている関西弁は、すべて映画のセリフなんです」 「映画?」 「阪本順治《さかもとじゅんじ》監督の劇場映画処女作『どついたるねん』です」  野呂もまこともほうっとため息をもらした。 「よくわかったな、猫弁先生。その映画好きなのか?」 「良い作品です。一九九〇年にテント上映してました」 「一度見ただけでセリフが頭に?」 「わたしではなく杉山がすごいのです。この小さな頭に多くのセリフが入っています。大音量で何度も聞いたのでしょうが、それにしても、語彙《ごい》が豊富です」 「アダチ、アダチ、キヨタ!」 「安達って?」 「主人公の苗字です。ボクサーです。清田は対戦相手です」  まことは感心したように杉山を見た。  百瀬はデジカメからSDカードをはずし、パソコンにさした。 「勝手に他人の家のプロジェクターを使ったと知れたら、損害賠償額が上がると考え、相沢さんは六十万で手を打ったのでしょう」 「すると透明人間は相沢か?」 「六十万を十回払いする人間が、法律事務所に百万振り込むとは思えません。別人でしょう」  百瀬は透明人間にメールを打ち始めた。  メールを送り終わる頃には、まことも野呂も帰ってしまっていた。  事務所は杉山と百瀬と十匹の猫だけとなった。  猫は鳥を襲うものだ。が、杉山の悪態にひるんだのか、今現在十匹とも姿を隠している。しかし猫は猫だ。本能が少しでも残っているならば、いつ杉山を襲うかしれない。  百瀬は事務所に泊まることにした。鳥かごを手に入れるまで、見張っていようと思う。  アパートの大家に電話した。 「梅園《うめぞの》さんですか? 二〇一号室の百瀬です。実は今夜、帰れそうもありません。申し訳ありませんが、テヌーをひと晩預かっていただけますか」  テヌーは去年百瀬が自動販売機の取り出し口から拾ったサビ猫で、自宅アパートで飼っている。 「百瀬さん、あんたボロをまだ子猫と思っているのかね?」  大家の梅園|光次郎《こうじろう》は七十二歳。広い日本家屋にひとりで住んでいる。彼は百瀬のサビ猫を「ボロ」と呼ぶが、百瀬は自分で付けた「テヌー」と呼び続けている。 「百瀬さんよ、あんたが拾った頃は赤ちゃんだった。ひとりで生きてゆけないから、昼間こっちに預けろと言ったのは確かにわたしだ。しかし今は違う。ボロはもう一人前の猫だ。アパートだろうが、こっちだろうか、好きに行き来できると気付いてないのか?」 「はあ」  百瀬は気付いている。が、認めたくない気持ちがあった。 「あんたが毎晩連れ帰っても、勝手にこっちに来るだろうが。ボロはうちを選んだ。好きにさせてやりなさい」 「はあ」 「迎えは不要だ」 「…………」 「それとも何か、猫の所有権がどうとか言うのかね。金が必要か?」 「テヌーに貨幣価値はありません」 「ただでくれるのか」 「あげるとか、くれるとか、命ですから、そういう言い方は」 「じゃあ、なんだ?」  なんだと言われても、言葉がみつからない。  施設を出て以来。人と同居したことがない。百瀬にとってテヌーは初めて共に暮らした「息をするもの」であり、家族のような存在なのだ。 「しばらく預けます」 「いさぎよくないな」 「通りはあぶないので車には気をつけるようテヌーに」 「言え、というのかね? 猫に?」 「いえその」 「会いたくなったらいつでもうちに来なさい」  電話は切れた。  シーンとした事務所は、急に広く感じられる。  百瀬は三段に積み上がった段ボールを二段にした。これで昼間は少し日光が入る。杉山も元気になるだろう。  靴下《くつした》を脱ぎ、ソファに横たわる。タオルケットを腹にかけて、天井を見つめる。  少し、疲れた。  足のゆびにくすぐったさを感じる。  牛柄の猫モーツァルトが百瀬の足のゆびをなめる。ざらざらの舌があたたかい。  この事務所にいる猫たちすべてが飼い主の事情でここへ来た。しかし自分の置かれた状況などものともしない。腹が満たされ、眠れれば、それで良しとするようだ。 「キョウノコウスイカクリツハ?」  百瀬はハッとして、キャットタワーを見上げる。杉山はボックス型ベッドの中で、顔だけ覗かせている。 「しゃべれるじゃないか」  山田サトシの前でそうしゃべっていたら、ずっとあそこで暮らしていられたのに。頭はいいのに、不器用な鳥だ。  頭の良さは生きやすさと比例しない。  百瀬は杉山の孤独を感じた。  ふと、透明人間も孤独なのではないかと思った。    第二章 黄色いクレヨン  沢村はコンビニの白い袋をぶらさげ、エレベーターで上昇している。  五階に着くと、薄暗い廊下《ろうか》を通って自室へ向かう。  深夜三時。人に会う可能性は極めて少なく、安心して歩ける。  自室が近づいて、ハッとする。  玄関前に男がいる。ドアを背もたれにして床に座り込み、赤い顔をして沢村を見ると、男は右手を挙げた。まるめた雑誌を握りしめている。 「おーっす」  男は上機嫌だ。  髪は栗色で、美しいウェーブがかかっており、ゆるめたネクタイは、エルメスの新作だ。  男は「入れて」と言いながら、よろよろと立ち上がる。  沢村は黙ってドアを開けた。  やけに身なりの良いよっぱらいは、沢村の部屋へなだれ込む。 「悪いな。こんなんでもう、運転できないし。俺が飲酒運転でつかまったらヤバいでしょう。法律王子がさ」  よっぱらいの名は二見純である。仕立ての良いスーツの上着を脱ぎ捨て、リビングのソファで仰向けになる。  沢村はグラスに水を入れ、二見に渡す。それを二見はうまそうに飲み干す。 「お世話さまです、トウメイくん」  沢村は黙って上着を拾い、ハンガーにかける。上着の襟には金色のバッジが光っている。  二見はソファで仰向けのまま、「うー」とか「あー」とかうなりながら、酔いを追い払おうとしている。  沢村は二見が床に放った雑誌を拾った。  週刊誌だ。表紙に大きく二見の写真が載っており、真っ赤な字がおどっている。 『法曹《ほうそう》界のカリスマ二見純のスーパー弁護術! 物理、医学、化学、すべてを駆使した仰天《ぎょうてん》裁判』  ソファの二見は天井を見て言った。 「カリスマ弁護士の背後にゴーストあり。となったら、ニュースだよな」  言い終わるとういっとしゃっくりをする。  沢村は雑誌をテーブルに置き、床に座って煙草に火をつける。  二見は天井を見つめたまま、マイペースで話し続ける。 「反対弁論、お前の想定通りだったよ。今回のシナリオ、二パターンしか書いてないから、秦野《はたの》がどう出るかどきどきだったけどさ。お見事! なんでわかるの? 超能力だね」  沢村は無言だ。満足そうな顔で煙草をうまそうに吸う。 「ウエルカムの秦野のくやしそうな顔! ウエルカムだよ、ウエルカム。あんなでっかい法律事務所のエースが、俺なんぞに言い負かされてやんの」  そこまで言うと、二見は咳き込んだ。 「煙い。どうかしてるぜ、いまどき煙草だなんて。ここにくると昭和にタイムスリップした気分になる」  二見はよろけながら立ち上がり、窓を開けた。  沢村はハッとして、耳をすませた。  子どもの笑い声は聞こえない。  二見は沢村から煙草を取り上げた。 「ゆるやかな自殺?」と言って、空のグラスに放り込む。 「長生きしようぜ」  言いながら二見は沢村をまじまじと見つめる。  伸び切った髪と、顔を覆うひげ。世捨て人のような沢村の目は、白目が青みがかって、黒目は色が薄く、灰色だ。鼻筋が通っており、白い肌が透き通って、まるで西洋人とのハーフだ。  二見は出会った頃の沢村を思い出す。  大きな邸宅の二階で、隠遁者《いんとんしゃ》のように暮らしていた沢村。ドアを開けて入った二見を、驚いた目で見返した。ひさしぶりに見る「他人」だったらしい。  その頃の沢村は、髪は手入れが行き届き、顎もつるつるで、肌は今と同じく紫外線不足で白かったが、栄養はそれなりに満ちており、頬も今ほどこけておらず、まごうかたなき美少年だった。そのときすでに二十歳を過ぎていたが、いかにも少年という風情で、日光が生命の成長を促すのだとしたら、部屋にこもりきりの生活が彼の成長を止めてしまったようだ。  今では美少年は見る影もない。  痛々しい思いがして、二見は目をそらした。  するとテーブルの上のスケッチブックが目に入る。  二見はワイシャツの胸ポケットからペンを出し、ソファにうっぶせになって、勝手に迷路を解き始める。 「迷路作りの腕でもじゅうぶん食えるな。法律事務所がうまくいかなくなったら、こっちで組もうぜ。お前、クリエーター。俺、プロデューサー」  そのあと二見はぷっつりと黙り、迷路に集中し始めた。酔いはすっかり覚めたようだ。  沢村はタオルケットを二見の背中にかけた。  二見は迷路から目を離さずに「サンキュ」と言った。  沢村はリビングに背を向け、十二畳の部屋へ入った。  あふれんばかりの書物と、二台のパソコン、そしてシングルベッドが一台。  買ってきた煙草をひと箱は胸ポケットに入れ、あとは本棚に並べると、ベッドに横たわり、さっそく一本吸い始める。  煙草……二見……仕事。  自分の世界にあるものを頭の中で並べてみた。たったこれだけか。  女と子ども……ひまわり。  無理矢理足してみたが、もの足らないような気もする。  ふと起き上がり、パソコンを起動する。  すると一件のメールが届いている。開くと、タイハクオウムの画像が目に飛び込んできた。  透明人間さま  依頼された杉山の件ですが、写真のとおり、杉山は無事です。山田さんが杉山をもてあましていたため、わたしが引き取って参りました。獣医に診せ、健康に問題ないこともわかりました。うちの事務所は猫が十匹いるため、杉山にとって好ましい環境ではありません。杉山をそちらで引き取っていただけませんか。わたしがお届けに参ります。お返事お待ちしています。 [#地付き]百瀬太郎  沢村はしばらく画像を見つめていた。  それからすばやく指を動かし。ネットバンクで振込み手続きをする。五十万振り込んだ。手続きを終えると、再びメールの文字を読む。  引き取る……届ける?  沢村はあせった。今にも玄関から百瀬が入ってくるような気がして、メールを画像もろとも削除した。煙草を灰皿に押し付け、ベッドにあおむけになり、目をつぶる。  すると曇《くも》り空が見えた。うわばきが片方、やけにゆっくりと落ちてゆく。  ハッとすると、天井が見える。  いつのまにか寝てしまったらしい。  パソコンはスリープしている。沢村はどこからどこまでが夢か確かめたくて、おそるおそるパソコンを覗いてみる。  百瀬太郎からのメールがゴミ箱に入っている。取り出して、ホルダーに保管する。  そして白いオウムの画像をじっと見る。  無事でよかった。  煙草と二見と仕事。女と子ども、ひまわり。オウム。  そして……百瀬太郎。  自分を取り囲むアイテムが急に豊かになったように思える。  沢村は気を良くしてリビングへ戻った。  ソファの上に迷路が投げ出されている、乱暴に書き込まれ、結局脱け出せない筆跡と「まいった」の文字、そして酒臭い空気が残っている。  二見はいない。いたという証拠を残して、去った。  沢村は電話機を見る。きっと今夜も電話が鳴り、「俺だ」と言い、ファクスが届く。  ジーカタカタの音が聞ける。あたたかい音だ。  カーテンから透ける日光は、うすぼんやりとしている。夜はとっくに明けたようだが、昼なのか夕方なのかわからない。  頭をはっきりさせるため、胸ポケットから煙草を取り出す。  瞬間、二見の言葉が甦《よみがえ》る。「ゆるやかな自殺?」  一本の細い煙草。  空から降ってくるうわばき。  うわばきを頭から振り払うように、沢村は煙草に火をつけた。      ○ 「この方、いかがでしょう?」  春美はモニター画面を会員の男に見せた。  ナイス結婚相談所の昼下がり。六番室のモニター画面には、厚いつけまつげの重みでまぶたが斜めになっている四十代女性の顔がある。  男はそれを見てうなずく。 「結構、結構」  春美はマウスを操作した。すると今度は目の下の白いシャドウがきらきらとまぶしい二十代女性の顔になる。 「この方は?」 「結構、結構」  春美は腕組みをした。 「梅園さん、そんなふうに誰でもいいという態度で、うまくいくと思っているんですか?」  言いながら春美は大福亜子と百瀬太郎を思い浮かべた。 「誰でもいい」と言いながら、百瀬は亜子という婚約者を得た。はたから見ると信じられない遠回りをしたが、なんとかなった。しかしこれはあくまでもレアケースだ。  春美と張り合うように、梅園光次郎も腕を組んだ。 「お嬢さん、うまくいくとは、どういうことですかな?」 「結婚が成功するということです」 「成功? 成立ではなく?」 「結婚が成立するのは、そう難しくありません。その後、相手とうまくやっていくことこそ、難しいことですし、だいじです」 「お嬢さんは有能な社員ではありませんな」 「どういうことですか?」 「いいですか? ここは結婚相談所です。結婚を成立させる。それで利益を上げる会社じゃないですか? 会社の利益に無関係な働きを社員のあんたがして、いいんですか?」 「はあ」 「考えてもごらんなさい。結婚が成立したら客はみなここを卒業しますよ。その後、離婚したからといって。金返せと言ってくる客がいますか?」 「はあ」 「わたしがあんたに頼んでいるのは、結婚成立までです。魚屋は魚を売ればいい。買った客がそれを焼き魚にしようがフライにしようが、関係ないでしょう。さっさと嫁さんを紹介しなさい。入会してからひとりも紹介してくれんとは、どういう了見ですか? わたしは七十二歳。刻一刻と老化が進んでいるんです。待った無しですよ」 「そうは言っても梅園さん、あなたくらいの年齢で、あなたくらい財産をお持ちだと、ええと。その、あのですね」 「はっきり言いなさい」 「相続を目的に結婚を望む女性がいるんです。よく見極めないと」 「なるほど死後の財産がニンジンですか。結構。くたばりかけのじじい、ってことで、そこを売りにして、どんどん女性を紹介してくださいよ。わたしは血圧正常、血糖値《けっとうち》正常。尿酸値《にょうさんち》異常無し。うまいこと死ななくて、嫁さんはくやしい思いをするでしょう」  春美は梅園の真意がつかめない。 「おくさまが亡くなられて四十年、おひとりでしたのに、なぜ急に結婚を?」 「おたくのパンフレットを見つけたんです」 「どこでですか?」 「アパートの住人の部屋です」 「親しいんですか?」 「別に。そいつは昼間いないんで、合鍵でちょこちょこ入って部屋を覗いているんです。三年前にここのパンフレットを見つけました。最近になって資源ゴミに出してあったので、おそらく成立したのでしょう。あの男が結婚できるなら、わたしだってと思いましてな」 「不法侵入で、つかまりますよ」 「お嬢さん、不法侵入なんて罪はありゃしません。住居侵入罪ならば、正当な理由があれば罪を問われません。わたしは大家です。妙な奴に入られて、こっそり原子爆弾でも作られた日には、おてんとさんに顔向けできません。大家の責任として、部屋を点検するのは当然のことです」 「その住人、どういう人間なんですか?」 「連帯保証人が、なんと言ったかな、そう、児童養護施設とやらの理事長なんですよ。当時奴は十八歳でした。身寄りがないわ、やせっぽっちだわ、学歴が中卒で、施設を出たあと三年間、パチンコ屋で住み込みで働いてたって言うんです。それが大検《だいけん》に受かって、大学に進学するっていうんで、部屋を探しておったんです。パチンコ屋の二階はうるさくて、学問に集中できないと言うんですわ。おかしな奴でしょう? 受験勉強はパチンコ屋の二階でできて、大学に入ってから学問に集中したいだなんて。普通大学は遊びに行くものでしょう?」 「そうなんですか?」 「わたしは行ってないので、知りませんがね」 「はあ」 「身寄りがないというのは、かわいそうな気もします。しかし一方で、不安もあってね。そいつが大学へ行っている間に何度か部屋を覗いたんですよ。したらね、机の引き出しに何があったと思います?」 「机の引き出しまで開けたんですか?」 「ただ部屋を眺めたって手がかりなんぞ落ちてやしません。整理|整頓《せいとん》がゆきとどいた男で、所持品はそこらへんに放らずに、きちんとしまってあるんです。施設じゃなくて、ひょっとしたら少年院あがりじゃないかと疑ったりもしました」 「引き出しに何があったんですか?」 「東大の学生証ですよ」 「東大? パチンコ屋の住み込みが、東大ですか」 「しかも法学部ですよ。あそこの偏差値ご存知かな?」 「知りません」 「わたしも知りません。まあ、いい。狭き門なことには違いない。わたしはなんだか、宝くじにでも当たったような気がしました。出世する種を見つけたようなもんでしょう? そして四年、いや五年後だったかな、何を見つけたと思います?」 「なになに?」 「弁護士バッジがありました」 「すごい!」  春美は思わず拍手をした。 「すごいでしょう? 奴の出世を祝って一席設けたいと思いましたがね、なにせ部屋に侵入しとるとわかったら、まずいんで。相手は弁護士ですからね、こちらに正当な理由があったとしても、相手は口が商売の人間だから、牢屋送りにされたらたまりません。しかしですな、あとがいけません。奴は二十二年うちにいるんです。弁護士のくせに、おかしくないですか?」 「弁護士がすべてお金持ちとは限りませんよ」  春美には心当たりがあった。 「梅園さん、儲けがないのに、アパートをつぶさないのは、その男のためですか?」 「ばかな」 「アパートは御神木みたいなもの、って言ってましたが、彼が御神木なんじゃないですか?」 「あんな馬の骨が? まさか」  梅園は厚いつけまつげの女性の写真を指差し、「この人ね」と言った。      ○  百瀬は何冊もの資料を抱えたまま、コピー機の列に並んでいる。  前に三人、百瀬は最後尾だ。  法律系の書籍のほとんどが、これでもかと重い。百瀬の貧弱な上腕二頭筋は、ねを上げる寸前だ。  ここは霞《かすみ》が関《せき》の弁護士会館上階にある図書館で、登録されている弁護士は自由に利用できる。コピー機は一台しかない。  事務所をかまえる弁護士ならば、コピー取りは普通秘書にやってもらう。百瀬だってそうしたい。秘書の野呂は法律オタクで、弁護士会館に来ること自体が好きだ。  しかし今、野呂は事務所の実務(十匹の猫と杉山の世話と電話応対)で手いっぱいで、ボスの百瀬より忙しい。  七重は杉山の件で、出所拒否の態勢に入り、もう三日出てこない。  心配して百瀬が電話をかけると「ストライキです」と七重は言い。そのあとすぐに「有給休暇はまだ残っていますよね」と付け加えた。  百瀬はおそるおそる言った。 「ストライキは法的には有給休暇と見なされませんが」  すると七重は「じゃあ、セクハラにします」と言った。  百瀬は驚いた。セクハラで訴えられるなんて心外である。  百瀬は自分を紳士だと固く信じている。  女性にとって紳士とはいかなるものか。つきつめれば、よくわからないし、「紳士の実体」をはっきりとはつかめていないが、自ら思うところの、つまり個人的定義によれば、「立派な紳士」であると、そこだけは自信がある。紳士であることを除けば、ひとつも良いところが見つからないと言っていいほどの、スーパー紳士だという自負がある。  そのことを従業員である七重にはしっかり理解してもらいたい。  百瀬は珍しくむきになって言った。 「それを言うなら、パワーハラスメントではないですか」  すると七重は「どうだっていいですよ」とあっさり切り捨て、「インコは生理的に許せない」をくり返す。 「先生だって、生理的に許せないことあるでしょう?」  百瀬は思い当たらず、「さあ」と答えると、七重は噛んで合めるように言う。 「たとえば、先生は高所がだめでしょう? だから一階を事務所にしてるでしょう? もし事務所を三十階建てのビルの屋上に移転するとなったら、どうです?」  屋上? まさか。寒気がして仕事にならない。  なるほど理解できた。七重も杉山を見ると寒気がするのだ。  ごめんなさい。杉山を連れてきてしまって、申し訳ありません。百瀬は心から反省した。  透明人間からは返信がない。報酬金の振込みはあったので、百瀬からのメールは読んだはずだ。杉山の情報に合計百万も払ったのに、引き取る意志はないのだろうか。  杉山の命を救ったのは透明人間だ。彼こそが杉山の孤独を埋められる唯一の存在だと百瀬は思う。  上腕二頭筋がぴくぴく痙攣《けいれん》し始めた時、やっと百瀬の番がまわってきた。  コピー機の前で操作を始めると、背後に人が並んだ。見ると、手に持っている紙は一枚だ。 「お先にどうぞ」と百瀬は言った。 「は?」  相手は順番を譲られたことに軽くとまどいを覚えているようだ。身なりの良い男だ。  髪はあざやかな栗色で、きれいにウェーブがかかっており、百瀬の目には一瞬、映画俳優のように見えた。仕立てのよいスーツの襟には弁護士バッジが光っている。  身なりが良いのに秘書に頼らず、自分でコピーを取るのだ。百瀬は親近感を覚えた。  男は誠実そうな顔で言った。 「いいんですか?」 「ええ、わたしは時間がかかるので、どうぞ」  男は「ありがとう」と言いながら、手早くコピーを一枚取り、会釈《えしゃく》をして去った。態度は上すぎず、下すぎず、立ち居振る舞いがスマートだ。  さあいよいよコピーを取るぞと百瀬が操作に取りかかると、「わたしもいいですか?」と背後から声がかかった。  振り返ると、手にいっぱい書籍を抱えた体格のよい女性が立っている。  あきらかに秘書という感じの紺のスーツに、毎日相当量歩くのだろう、ローヒールのパンプスを履いている。  百瀬は女性が抱える書籍を見て、時間がかかると判断した。並んでやっとまわってきた順番だ。譲る必要はないと思う。が、自分は紳士だ。紳士はレディファーストが原則である。それについさっき、男に順番を譲ってしまった。「彼には譲るけどあなたには譲れません」とも言いにくく、しかたなくコピー機を譲った。  女性は延々とコピーを取り続け、合間に携帯電話でメールを打ったりしている。  百瀬は資料を抱えたまま「今日は腕が鍛えられた」と思うことにした。 「相変わらずだな」  背後から声がかかった。  振り返ると、恰幅《かっぷく》のよい色白の男がにこにこ笑っている。なつかしい顔だ。 「寺本《てらもと》? 寺本か?」 「光栄だな。覚えていてくれたんだ。君の脳みそなら、一度会った人間はすべてフルネームで覚えてるんだろうけどね。ぼくの下の名前、言える?」 「鈴男《すずお》。寺本鈴男くん」 「うれしいよ、百瀬太郎くん」  寺本は満面の笑みを浮かべ、百瀬が抱える資料を両手で受け取り、百瀬が口をぽかんと開けている間に、さーっと、すべてを書架に戻してしまった。  せいせいしたような笑顔で戻って来ると、寺本は言った。 「ぼくの研究室にすべてある。貸してやる」  そして百瀬の腕をつかむと、強引に外へ連れ出し、エレベーターに押し込んだ。エレベーターは狭くて混んでいるため、百瀬は寺本に質問できなかった。  地上に着くと、寺本は再び百瀬の腕をつかみ、強引に建物の外へ逮れ出すと、片手を挙げた。  タクシーが停まり、再び百瀬は押し込まれた。 「西早稲田《にしわせだ》」と寺本は言い、にこにこしている。 「君の用事は済んだの?」  百瀬が尋ねると、寺本は笑いをこらえるような顔で言った。 「ぼくの用事は君だよ。君に会いに来たんだ。事務所に電話したらここだと聞いてね。なんだか君の事務所、やけに騒がしかったな。妙な客が来ていたようだが」 「妙な客?」 「関西のやくざかな。あは、ぼけ、って叫んでいたけど、だいじょうぶ?」 「杉山だ」 「依頼人?」 「鳥だよ。タイハクオウム。人間じゃない」  寺本はうれしそうに手を叩きながら笑った。 「君は猫だけじゃなく、鳥まで面倒見るのか」  こらえ切れないようで、寺本はずーっと笑っている。  これだけ楽しんでくれたら、ありがたい。杉山の一件もあながち負の要素ばかりではないな、と百瀬は思うことにした。  寺本は東大法学部時代の同期で、現在は早稲田大学法学部の教授をしている。会うのは卒業以来だ。  寺本の研究室は法学部新校舎の二階にあった。そう広くはないが、明るくて清潔だ。  寺本は百瀬に椅子を勧《すす》めると、使い込んだ珈琲ミルで豆をひき始めた。カリカリ、ザリザリと豆がくだかれるたびに、良い香りが立ちのぼる。  二階の窓からは、キャンパスでたむろする学生たちが見える。のどかだ。真新しい机、壁を覆う贅沢な書物。  百瀬は背表紙を眺めながら、「専門は法哲学なんだね」と言った。 「逃避だよ。現実からの」  そう言って寺本はサイフォンに火をつけると、手元のベルを押した。  一分と経たずにドアをノックする音がして、若い女性が入ってきた。  素顔に深紅の口紅が鮮やかだ。顎のラインで切りそろえられた黒髪は、さわると手が切れそうなくらいまっすぐだ。 「資料室から有斐閣法律学全集の民法総則と契約法、商行為法、判例タイムズ一三七五号、それとジュリストの消費者契約法を特集した号を持ってきて」と寺本が言うと、「わかりました」と言って、女性は消えた。  百瀬は女性のすばやい身のこなしに驚いた。資料名の復唱すらしない。有能なのだ。 「研究助手だよ。君が拒否した道」と寺本は言った。 「拒否したわけでは」  そう言いながら、百瀬は法哲学の本を一冊手に取り、読み始めた。  すると寺本は叫んだ。 「社会に出て正義の味方になるんです!」  百瀬は驚いて、寺本を見る。 「首席の君がそう言ったもんで、秋元教授は真っ赤な顔になっちまった。卒倒しそうだったよなあ。みんなあの席を狙って必死に勉強してたのに、君といったらもう、小学生レベルの意識なんだから」 「ぼくは」 「ぼくの父は裁判官だった」寺本は遮るように言った。 「ずっと父を尊敬していたし、父のようになりたくて、必死に勉強したよ。一浪したけど東大に入れた。そこまでは順調だった」  サイフォンはこぽこぽとよい音をたて始めた。 「ところが運悪く、同学年に君がいた。ぼくはびっくりした。こんな頭を持った奴がいるなんて。必死に学んだよ。君に追いつこうと思ってね。追い抜こうなんて思いははじめからない。近づくだけでいいと思った」  百瀬は学生時代を思い出す。大学の図書館で遅くまで調べものをしていると、色の白い、今よりだいぶほっそりとした寺本青年が近づいてきて、「この法解釈をどう思う?」と質問してきた。  何度か話し込んだ記憶がある。しかし、百瀬に質問するのは彼だけではなかった。百瀬にとり寺本は特別な存在ではなかった。 「結局、君に近づくのは無理だとわかった。それで法曹界に入るのをやめたんだ。君は絶対に学問の世界に来ないと踏んで、ぼくはこっち側で法律と関わることにしたんだ」 「…………」 「気にしないでくれ。ぼくにはこの道が合っている。今すごく幸せなんだよ」  寺本はそう言って、香りのよい珈琲をカップに注ぎ、百瀬に差し出した。 「君には感謝している。君から逃げることで、自分に合った世界を見つけられた。結果的に父から卒業できたのさ」  寺本はまるで乾杯《かんぱい》でもするように、カップを目の位置まで掲《かかげ》げると、飲んだ。  百瀬も飲んだ。うまかった。  百瀬は考えた。父親って卒業するものなのかと。自分には父親の影すら見えず、唯一の肉親の母さえ、別れて三十二年になる。母から卒業しようにも、母の実体はきわめて遠い。 「赤井玉男《あかいたまお》を知ってるよね?」と寺本は言った。 「うん」  赤井は寺本のゼミの生徒で、ひじょうに優秀だったが、在学中にある夫婦から猫の家庭教師を依頼され、百瀬法律事務所に相談に来た。 「『春の小川』を歌えるようにできないと、クビになってしまうんです」  赤井は猫に歌を歌わせるという課題に必死に取り組んでいた。  まじめすぎて、ノイローゼに近い状態だった。百瀬と話をしただけで落ち着き、自分を取り戻すと、教え子である猫を引き取り、勉学に励み、みごと司法試験に受かって、今は司法研修所に通っている。 「ウエルカムが彼を欲しがっている。ところが本人はほかに行きたいところがある。そこでぼくに相談に来たんだ」 「ウエルカムよりいい事務所って、どこだろ?」 「百瀬法律事務所だと」 「え? うち?」  百瀬はむせた。珈琲が気管に入ってしまった。せっかくの味だけど、気管には味覚がない。 「なあ百瀬、彼を君のところで引き受けてくれないかな? 関西系やくざが心配だったけど、鳥だと聞いて安心したよ」 「無理だよ」 「イソ弁でいい」 「居候《いそうろう》に払う給料がない」 「じゃあ、場所を貸すだけ。ノキ弁でいい」  百瀬は杉山と十匹の猫を思い浮かべた。有給ストライキ中の七重の顔も浮かんだ。 「無理だ」 「君を尊敬しているんだよ。赤井は」  百瀬は静かな口調で尋ねた。 「彼を猫弁にしたいの?」  寺本はにやにやして何も言わない。 「事務員は今、出所拒否している。ぼくは周囲を幸せにする器じゃないみたいだ」  そこまで話して、百瀬はハッとした。  ショートケーキを食べている大福亜子の顔が浮かび、彼女を不幸にするのではないかと急に不安になった。  寺本はにやにやしながら百瀬に尋ねる。 「なら君は赤井にウエルカムを勧めるの? 自分はやめたのに?」 「やめたくはなかった。クビになったんだよ」  すると寺本は手を叩いて笑い始めた。 「ばかだな、ウエルカムは! こんな天才を!」  笑いころげる寺本を百瀬はただぼんやりと見ていた。  寺本の笑いのつぼが理解できない。タクシーからずっとだ。  たしか学生時代は笑顔がなかった。きっと今、しあわせなんだろう。 「わかった」寺本は笑いすぎて涙目になって言った。 「百瀬になりたかったら、クビになるまでウエルカムにいろと赤井に言うよ」  百瀬はほっとして珈琲をゆっくり飲んだ。  寺本は「さっき君がコピーを譲った奴」と言った。 「女性?」 「いや、その前の男」 「ずいぶんとかっこいい男だったね。寺本、知ってるの?」 「君は知らないの? 有名な法律王子だよ」 「二見純?」 「そう、二見純。テレビに出ているけど、いわゆるタレント弁護士とは違う。裁判の勝率が高い。このところ連勝だ。ひっかかるんだよ」  寺本は真顔で言った。 「からくりがあると思う」 「からくり?」 「劣等生《れっとうせい》だったんだよ、あいつ」 「君のゼミの生徒だったのか」 「奴はこんな偏差値の高い大学入れやしないよ。五年前、ぼくは司法研修所で講義を何コマか担当してたんだけど、あいつはちょっと目立った修習生だったんだ。十一度目のトライで受かったらしい。研修所で苦労してたよ。本人より教官がね。ちゃめっけがあって、人当たりがいいから、なんとか教官に判をもらってたけど、飲み込みが悪くてね。どの事務所も拒否して、独立するしかなかったんだ」 「努力して成功したんだね」  百瀬が言うと、寺本は首を横に振った。 「大物弁護士が裏にいて、指導していると思う」 「まさか」 「たとえば、弁護士資格を剥奪《はくだつ》されたブラックな元大物とかが、二見を身代わりにして、弁護活動しているんじゃないかと思う」 「証拠は?」 「ない。でもできすぎだ。二見の能力であそこまでいくはずがない。どんなにがんばったって、無理さ。努力は才能を凌駕《りょうが》できない」  そう言って、寺本は少し寂しそうな顔をした。  百瀬は机の上の写真立てに気付いた。 「娘さん?」  ベレー帽をかぶった女の子だ。  寺本の表情はなごんだ。 「ああ」 「七つくらい?」 「そう、七歳」  寺本の薬指には白金《プラチナ》の指輪が光っている。 「百瀬、結婚は?」 「まだだ。結婚ってどういうもの?」 「恋愛とは違う」寺本はきっぱりと言った。 「過去につき合った女性とかみさんへの気持ちは、全然違う」 「どんなふうに?」 「うーん、たとえば大西洋で船が沈んだとする。板が一枚浮かんでて、ふたりで乗ったら沈む。そんなとき、自分は沈んでも、妻を板に乗せる」 「タイタニック?」 「そう、結婚ってああいうことだよ。自分より大切なものができるってことだ」  百瀬は黙って考え込んでいる。  寺本は興味深そうに聞いた。 「恋愛中なのか?」 「いや」 「まったくひとり?」 「結婚する予定なんだけど」 「それはおめでとう! 恋愛じゃないなら、見合いか?」 「見合いは全滅だ。三十一人に断られた」 「え?」 「でもこんど結婚する。たぶん、結婚する」  百瀬は自分に言い聞かせるように言った。  寺本はあきれたような顔をして、そのあと笑い転げた。おかしくてしょうがない、というふうに、腹を押さえ、涙さえ浮かべている。  これだけ笑ってくれたらありがたい。百瀬はそう思うことにした。  百瀬は借りた資料を二重にした紙袋に入れ、破れないように両手で抱えながら地下鉄の階段を降りてゆく。寺本は「正門にタクシー乗り場がある」と言ったが、百瀬はそうお気楽にタクシーを使えない。  電車に揺られながら、百瀬は想像した。  大海原《おおうなばら》に大福亜子とふたりで浮かんでいる図を。それはもう、必死になって板を探し、彼女を乗せるに違いない。自分の行動に迷いはないと言い切れる。  やはり自分は大福亜子を愛しているのだ。結婚する資格があるのだと確信できた。  その瞬間、胸ポケットが震えた。事務所からの電話だ。次の駅で降り、ホームのベンチに荷物を置き、折り返し電話をかける。 「七重さんが戻ってきました。インコ手当が欲しいと言ってます」  野呂の明るい声に、百瀬はほっとする。手当は払いましょうと言って、電話を切り、次の電車を待った。  そのとき再び脳裏に大海原が見えた。  今度は七重がおぼれかけている。「助けて、先生」と手を振っている。すると百瀬は必死に板を探し。七重にその板を渡す。そして自分が海底に沈んでゆく姿が見えた。  七重の命とひきかえに、自分が死ぬのをいとわないと百瀬は確信した。  野呂は? もちろん助ける。そして自分は死ぬだろう。  寺本は? 娘がいる。もちろん、助ける。  百瀬はあせった。前頭葉に空気を送るべく、上を見る。  途端、電車がホームに入ってきた。風圧と騒音で思考はかき乱される。  考えるのをあきらめ、荷物を抱え、電車に乗った。  すると「あせらなくていいのよ」という声が聞こえ、ハッとした。  見ると、五歳くらいの女の子が、クレヨンを床に落としてしまったらしく、泣いている。  母親らしい女がしゃがんで散らばったクレヨンを拾いながら、女の子の背中をぽんぽんと叩き、励ましている。  百瀬は紙袋を床に置き、クレヨン拾いを手伝った。 「すみません」と母親は言った。  女の子は泣きやみ、小さくしゃっくりしている。  百瀬は微笑んだ。 「あせらなくていい」ってなんて素敵な言葉だろう。  親が子にかける良い言葉ベスト3に入る。自分に子どもができたら、言ってやる。「あせらなくていい」と言ってやる。  次の駅で、母と子は降りて行った。  百瀬は床に置いた紙袋を持ち上げようとして、クレヨンが一本落ちているのに気付いた。拾ったが、もう電車は動き始めている。  黄色いクレヨンだ。半分くらい減っている。  七重が塗ってくれた黄色いドアが目に浮かんだ。      ○  電話が鳴り、沢村は目を覚ます。  部屋は明るい。昼間だ。  リビングのソファで寝てしまったらしい。吸いかけの煙草が灰皿で燃え尽き、白い煙が部屋じゅうにたちこめている。電話は常に留守電にしており、受話器を取ることはない。相手もわかっていて、勝手にしやべる。 「透明《すけあき》、いるんでしょ? おかあさんよ。わたしのこと忘れてないでしょうね? 今、玄関前。入りますよ」  途端、鍵をまわす音がし、「暑い暑い」と言いながら、沢村|文枝《ふみえ》が入ってくる。  五十五という年齢にふさわしい品の良いツーピース、栗色の髪は大きめにカールしており、それが歩くたびに頬の横で優しく揺れる。  重たそうなコーチのトートバッグのほかに、大きめの紙袋とふろしき包みを下げている。上品なたたずまいだが、腕力はあるらしい。  文枝はソファに横たわるひげ面の息子を見て、「生存確認よーし!」と声に出し、荷物を床にどすりと置くと、「臭い臭い」と言いながら、カーテンを開け、ガラス戸を開け放った。  沢村は顔に当たる日光に目をつぶる。  外の音が聞こえる。大通りの車の走行音、公園で遊ぶ幼児の声、母親たちの話し声。  閉じた空間は崩れ、一気に外界が入ってくる。  まぶしくてわずらわしいまっとうな社会だ。 「閉めて」と言いたい。が、声にならない。  何年も発音していないから、声帯が衰えてしまったのだろう。  文枝は冷蔵庫に突進し、扉を開ける。 「この間持ってきたお味噌《みそ》はどうしたの?」  沢村は返事をせず、大きく息を吸った。部屋は煙草の臭いがすっかり消え、健全な空気が肺に入る。空気を吸っただけで、寿命が延びてしまいそうだ。 「お味噌、捨てたんじゃないでしょうね?」  沢村は立ち上がり、はずみで「う」と声が出た。  すると文枝は前のめりになった。息子の言葉の破片すら聞き逃すまいとしている。 「うざい? 今、うざいって言った?」  沢村はあわてて首を横に振る。 「まったくもう。口をききたくなったら、おかあさんありがとうとか、おかあさんきれいだねとか、そういうのになさい」  沢村は手の甲で口の横のヨダレのあとをこする。 「あなたが初めてしゃべったとき、ウンチ、って言ったのよ。生まれて初めてがウンチで、成人して初めてがうざいじゃ、救いようがないわね」  文枝は息子をまじまじと見つめ、「食事はあとにしましょう」と言って、コーチのバッグからはさみを出した。  しゃきしゃきしゃき……。はさみが入るたびに、髪が肩にふわりと落ちる。  床屋が始まった。  上半身裸になった沢村は、リビングの真ん中で、椅子に座らされている。足の下にはレジャーシートが敷かれている。  息子が新聞など取ってないことを知っており、準備万端だ。  毛が落ちる。長い毛は床へ落ちるが、短い毛は肩の上に降り積もる。色白の沢村は肩だけ熊のように毛深くなった。 「今日はなんの日だかわかる?」  文枝の問いに、沢村は答えない。誕生日は明日だ。三十になる息子の誕生日を一日間違えているのだろう。 「今、もうろくしたと思ったでしょう? 馬鹿にしないで。誕生日は明日」  文枝は手を止め、息子の顔を真正面から見る。 「『トップガン』のトム・クルーズにしようかな。『青い鳥』のトヨエツ務所《ムショ》帰りカットにしようかな」  文枝は意味不明なことを言いながら、鼻歌を歌い、再び沢村の髪をカットした。  ついに高校球児のような五分刈りになった。素人なので、ところどころ、ぴょこりと伸びている。 「ひげは自分で剃りなさい」  文枝は電気|剃刀《かみそり》を息子の手に握らせる。コーチのバッグはドラえもんの四次元ポケットのようだ。  沢村は立ち上がり、毛を床に落としながら、バスルームへと去った。  やがてシャワーの音が聞こえ、文枝は床掃除を始める。  毛の始末を終えると、そっと寝室を覗いた。  ひどい部屋だ。地震が来れば終わりだ。しかも震度三くらいで。本に埋もれて息子は圧死するだろう。注意したいが、息子に言いたい事はもっとほかにたくさんある。本の置き方には目をつぶろう。掃除はしているらしく、ほこりはない。掃除をする時間があったら身なりを整えて欲しいと文枝は思う。おしゃれもせず、遊びもしない。わが息子はシンプルすぎる。  寝室を出て、耳をすますと、シャワーの音が聞こえる。  まだ大丈夫だと、玄関脇の部屋のドアノブに手をかけた。  鍵がかかっている。ドアに耳を押し当てたが、生き物がいる気配はない。同居人はいそうもない。  がっかりだ。  文枝は友人たちがこぼす「息子の女関係」の愚痴をいつもうらやましく聞いている。女でも男でも、悪人でも善人でもいい。息子に関わってくれるだけで、ありがたい。  シャワーの音が消えた。  文枝はあわててリビングへ戻る。用意してきた食べ物をバッグから取り出し、キッチンであたためる。むこう一ヵ月分の栄養を息子の体内に送り込まねば。  沢村はTシャツと短パンを身に付け、食卓に座った。食卓と言っても、ソファの前に低いテーブルがあるだけだ。  楕円《だえん》のテーブルには、焼き魚、煮物などがこぼれ落ちそうに並んでいる。漬け物の小鉢は脇役なので床に置いてある。味噌汁はない。すまし汁だ。  文枝は床に正座し、息子の顔を見る。  ほっそりとした首。青白い頬。ひげは跡形もなく、形の良い顎はつるつるだ。鼻筋はすっきりと通って、目は二重がくっきりとしている。瞳は灰色で、自分とよく似た美しい顔だ。  ブラッド・ピットなんて目じゃないと思う。  息子の顔に満足した文枝は、平皿に盛った赤飯を差し出す。 「今日はなんの日か思い出した?」  沢村は無言で皿を受け取り、箸を持つ。 「あなたの独立記念日よ」  文枝は腕を突き出して、赤飯にごま塩をかける。 「うちを出て五年」  沢村は赤飯を食べ始めた。 「とにかくあなたは自立できた。おめでとう」  沢村は煮物に箸をつける。里芋は苦手だ。がんもどきをつまむ。 「やっとあのこと[#「あのこと」に傍点]から卒業できたわね。あなたは学級委員だったし、そりやぁ優しい子だから、あの子のことはショックだったと思う。でもあれはよそのおうちの問題なんだから」  沢村はすまし汁を飲んだ。味噌を捨てなければよかったと思う。 「あなたは成績も優秀だったし、将来が楽しみだった」  おだやかな笑顔を作りながらもどこか寂しげな母の顔を見て、沢村は思い出す。  ひきこもり始めて十年目、二十歳の時だ。それまで優しかった文枝が、いきなり包丁《ほうちょう》を振り回し、息子を刺そうとした。柔らかかったはずの母の顔が般若《はんにゃ》のようにゆがみ、父が必死に腕を押さえていなければ、自分は刺されて死んでいた。  床には成人式の招待状が落ちていた。区役所からだ。  息子がひきこもっている年月を思い、憤懣《ふんまん》がいっきに爆発したのだろう。 「少しはおかあさんに見返りをちょうだい!」  あのヒステリックな声は、一生忘れない。「見返り」と言った。  子育てって見返りが必要なのだろうか。美しくて上品で自信に満ちていて、起きてすぐに化粧《けしょう》をするほどしゃきんとしている母の、取り乱した姿を見るのは初めてだった。  その頃は両親と住んでいた。  瀟洒《しょうしゃ》な一戸建ての二階の部屋で、父が買ってくる書物だけが友だちだった。  外務省に勤める父親は、海外出張が多く、息子に向き合う時間はなかった。小学五年で学校へ行けなくなった息子に、せめて教養だけでもと、本を買い与えた。  むさぼるように読んだので、名だたる児童文学はすべて読破、小説、論文、やがては学問の専門書に及んだ。理系の書物も面白かったが、特に好きだったのは法律で、解釈でいかようにも結果が変わるのが愉快《ゆかい》だった。難解な文章もひまつぶしにはもってこいだ。  法律を知ることで、社会と結びつき、孤独が埋まるような気もした。  おかげで沢村のひきこもり生活は豊かなものだった。  泣き叫ぶ母を見て、初めて自分の親不孝に気付いた。それまで母は笑顔でいたので、苦しめている実感がなかった。  中学にも高校にも行けず、大学にも行かない。  たしかに自分は親不孝をしている。何かひとつくらい期待に応えてあげたいと、司法試験を受け、合格した。勉強は必要なかった。すべて頭に入っていたから。関門は試験会場へ行くことで、一生分の勇気を使い切った。  研修所には通えなかった。司法修習を受けないと、資格は取れない。  母に二度目の落胆を与えてしまったのは事実だ。  しかしあれ以来。母は一度も取り乱していない。  母はよくもっている[#「もっている」に傍点]と沢村は思う。 「仕事は順調みたいね。ここのお家賃、払えているみたいだし。システムなんとかって言うの? 家でもできる仕事があるって、ありがたい世の中だわ」  文枝はしゃべりながら自分も食べ始めた。 「最近、テレビで二見くんを見かけたわ。二見くんよ。覚えてない? ほら、うちにいきなり訪ねてきた人。研修所で同期だって、あなたが来ないのを心配して。一度だけ来てくれたじゃない。無事弁護士になれて、親御さんはさぞかし自慢でしょうね」  文枝はすまし汁を飲み、「少し薄かったかしら」と言い、箸を置いた。 「あなたが突然家を出ると決めて、出て行ったあと、おかあさん、ショックで寝込んじゃったのよ。でもひと月経ったら、あきらめがついた。まずはベンジャミンに水をやったわ。鉢植えのベンジャミンよ。まだわたしにもやることが残ってるって思えたわ」  文枝はいったん目をふせた。再び目を開けると、息子の目を見ずに言った。 「わたしが弱い人間だから、あなたがこうなってしまったんでしょう。あなたはちっとも悪くない。すべてわたしのせいよ」  沢村は焼き魚を食べ終えた。背骨を残して、すべてきれいに食べ切った。  母が帰り、沢村はぐったりとソファに寝そべった。  天井を見ながら思った。  かあさん、あなたはひとつも悪くありません。  悪いのはぼくなんです。  あいつは教室の一番うしろのはじっこの席で、いつも同じ服を着ていたんだ。給食をがつがつ食ってた。  一度だけ、ぼくはあいつに「臭い」と言ったんです。  家庭の事情なんて、知らなかったから。  あいつは困ったような顔で笑ってた。  その日、屋上からうわばきが落ちてきた。  三階の教室の窓から見えたんだ。  なぜだろう、ぼくは「やはり」と思った。  驚いているぼくを見て、みなが窓に張り付いた。  ぼくは下を見る勇気がなかった。  女子たちの悲鳴だけでじゅうぶんだ。  あれから言葉を発していない。  かあさんはいろんな医者にぼくを診せた。  一時的なショック状態で、じき治ると医者は言った。  声を出せなかったのは半年くらい。あとは意識的に声を出さなかった。  自分の声が凶器に思える。  煙草をいっぱい吸ったから、はやめにあの世に行けるかな。  あいつはあの世で小さいままだろう。  会えたら「ごめん」って言ってみる。      ○  あぶら蝉《ぜみ》がにぎやかだ。  百瀬太郎は新宿中央公園のベンチで、大福亜子を待っている。  人工の滝が見える場所である。  この滝はナイアガラの滝を模してデザインされていると聞く。堂々、ナイアガラの滝と名付けられており、百瀬はそのネーミングに若干の違和感を持っている。ここは新宿だ。ナイアガラはおかしい。そもそも小さすぎる。ナイアガラの滝は「でかい」ことが一番の個性なのだから、相似形で小さくしたって意味が無いのではないか。  百瀬はそういった細かい間違い(と言えるかどうかもあやしいこと)が気になる質《たち》である。  話すとたいていは引かれる。相手になってくれるのは、野呂くらいなものだ。野呂もそうとう、細かい質である。  夕方になっても気温が下がらず、蒸し暑い。蝉の声が暑さを増幅する。  唯一、滝の水しぶきが涼感を演出しているが、ナイアガラという名がちらつき、百瀬は落ち着かない。  今日は仕事が六時に終わるので、夕食を一緒にいかがですかと、亜子から電話があった。  杉山のごはんは百瀬の仕事なので、八時には事務所に戻らねばならず、二時間のデートである。現在五時五十二分。女性は少し遅れてくるものだから、あと十分は待つ事になるだろう。  百瀬は結婚相談所の紹介で、過去三十一人の女性と待ち合わせをした。そのうち二十五人が時間に遅れてきた。遅れるのが女性のたしなみなのかもしれない。  女性と二度目のデートをするのは、百瀬史上初のことである。  緊張している。  二時間も一緒にいるのだ。二時間も一緒に何をしたらいいのだ。  百瀬のこめかみから汗が流れる。くせの強い前髪が、汗で額に張りつく。このところ事務所に泊まっており、まともに風呂に入っていない。  このままでは汗臭いのではないか。  急に不安になり、近くの水飲み場に行き、顔を洗った。  水道の水はお湯のようになまぬるい。ざぶざぶと洗ったが、あまりすっきりとはしない。  ハンカチはいつも上着のポケットにある。  が、しまった。上着を着ていない。暑いので、事務所に置いてきてしまった。  どうしよう? 失敗だ。  手も顔もびしよ濡れである。上半身を前に倒したまま、手をぶらぶらさせてみる。  すると手に何かが触れた。布のようだ。  振り返ると誰かがいて「どうぞ」と言う。声は、亜子だ!  あわてて尻ポケットに入れているめがねを濡れた顔にかけた。  やはり、亜子だ。  百瀬は差し出されたハンカチを握りしめ、突き出した尻をひっこめた。  体をまっすぐにしたため、顔から水滴が首をつたい、シャツが胸元からみぞおちまで濡れてしまった。 「ごめんなさい」と言いながら、百瀬はハンカチで顔と手を拭いた。「ありがとう」のほうが正しいと思ったが。なんだか無性《むしょう》に謝りたい気持ちだ。  待ち合わせた男がびしょびしょの顔で尻を突き出しているのは、女としてさぞかし腹立たしいことだろう。女性とつき合ったことのない百瀬も、それくらいの女心は想像できる。  紳士と真逆の行為で女性を迎えてしまった。  亜子は白いやわらかな生地《きじ》のワンピースに、ウェストできゅっと紺色のベルトを締めている。  体のラインが制服よりあきらかで、今まで見た中で一番女らしく見えた。おしゃれをしてきてくれたのかもしれない。 「シャツがびしょびしょですね」と亜子は言った。 「そんな服で冷房のきいたレストランに入ったら、風邪を引いてしまいますね」  亜子は腕を組んだ。それは結婚相談所の七番室でよく見たポーズだ。何か考えているらしい。せっかくの女らしさが吹き飛ぶポーズだが、百瀬はそれが嫌いではない。 「百瀬さん、八時に事務所ですよね。あまり時間がないから、ここで食べましょう。外にいれば、じきに乾きますよ」  亜子は待っててくださいねと言って、走り去った。  さきほどのベンチで、百瀬は滝を見ながらぼんやりと亜子を待った。  蝉の声のトーンがいくぶん低くなった。  ナイアガラのネーミングへの不満などもうすっかり消えた。百瀬の意識は「大福亜子が戻ってくるかどうか」の一点に絞られている。日は沈み、世界はすっかり青みを帯びてきて、暑さは弱まり、シャツはとうに乾いた。  時計は七時を五分過ぎている。八時に事務所に戻るには、十五分前にはここを出なければならない。  亜子は戻ってくるだろうか。ハンカチを広げて考える。  ブランドものではなさそうだ。薄いクリームイエローの地に、小さな花模様が描かれている。花は……植物図鑑にはない。花びらの枚数からして、実在しない花だ。もらいものだろうか。亜子の好みなのだろうか。  ふと見ると、遠くから亜子が走ってくる。  ほっとした。いなくなってしまったわけではない。 「行列だったんです」  息を切らしながら亜子が得意気に差し出したのは、幕の内弁当だ。 「おいしいんですよ、ここの」  そう言って、亜子は百瀬の膝の上に弁当をひとつ置き、隣に座って、自分の膝に弁当を置き、 「いただきます」と言って食べ始めた。  蓋を開けると、女性が好きそうなひとくちサイズのおかずが全部で十二種類、かわいらしくおさまって、赤飯の俵形《たわらがた》おにぎりがふたつ並んでいる。  自分が弁当を選ぶときは重さを最重視するが、これが女性というものなのだろう。  百瀬は女性をひとつ学んだ気になった。  亜子は食べながら、言った。 「来月お誕生日ですね。何か欲しいものはありませんか」  百瀬は驚いた。 「わたしの誕生日を知っているのですか?」 「会員のプロフィールに書いてあったじゃないですか」  ああ、そうか。  自分の事はずいぶん知られているのだと思った。自分は大福亜子の事を何ひとつ知らないけれど。  いったい彼女は何歳なのか? 年齢すら知らない。世田谷《せたがや》猫屋敷事件のときに中学生だったのだから、自分よりひとまわりは若いはずだけど。紳士は女性に年齢を尋ねてはいけないと思うので、聞けない。まあ、一生知らなくても、どうってことはない。  年齢不詳の女は言った。 「欲しいもの、ないですか?」  欲しいものはただひとつ。決まっている。しかし言ってよいものかどうか。迷うところだ。引かれたらどうしよう? 百瀬は赤飯をほおばりながら、考えた。 「あまり高価なものは買えませんが、百瀬さんにとって四十歳という区切りの年齢だし、何か記念になるものを差し上げたいのですが」 「欲しいものはあります」  やけにきっぱりと言ったのに、そのあとが続かない。百瀬は急に冷や汗をかき、ハンカチで汗をぬぐった。  亜子は百瀬の様子を見て、どきっとした。一度どきっとすると、どきどきが止まらず、亜子も冷や汗をかいたが、ハンカチはない。百瀬が握りしめているので、返してとも言えない。  しばらくふたりは黙って弁当を食べていた。やがて百瀬は食べ終えて、弁当に蓋をすると、地面に目を落として、言った。 「……ください」  あまりに小さな声で、亜子は聴き取れなかった。  百瀬はもう一度言った。小さい声なので、亜子は耳を近づけた。 「写真?」 「はい」 「わたしの写真ですか?」 「はい」 「誰に見せるんですか?」 「ポケットに入れておこうと思って」  亜子は驚いた。  実を言うと、亜子の定期入れには百瀬の写真が入っている。プロフィール用に提出してもらった写真だ。やめた会員のプロフィールはデータを消去し、写真や紙の資料はシュレッダーにかけるのが決まりだが、亜子はこっそり写真を拝借してしまった。  亜子は百瀬が好きなので、写真を持っている。百瀬が亜子の写真を欲しいというのは、わたしを好きになり始めた兆候かもしれないと、亜子は思う。  万歳! と叫びたい。  携帯ではだめだ。できれば少しでもきれいな写真を渡したい。 「今度一緒にプリクラ撮りませんか?」と言ってみる。フラッシュを余計に使って美しく撮れる機種がある。並んで撮って、記念にしたい。  百瀬は。ぴんとこないようだ。 「プリクラ?」 「知りませんか?」 「知っていますが、撮ったことはありません」  亜子は笑った。 「百瀬さん、高校生のとき、ゲームセンターに行ったりしなかったんですか?」  百瀬少年はいったいどんな青春を過ごしたのだろう?  おおよそ想像がつく。生徒会長か何かで、趣味は図書館通いか、映画館通い。わくわくしながら答えを待つと、百瀬は言った。 「高校には行ってません」 「え?」  亜子は笑顔のまま、固まった。 「だって大学は卒業していますよね」 「大検を受ければ、大学受験ができるんです。正式名称は大学入学資格検定と言います。今は高等学校卒業程度認定試験と改称されました。通称、高認《こうにん》です」 「高校に行ってない……」  亜子は混乱した。百瀬に親がいないこと、児童養護施設で育ったことを頭では理解していたのだが、実感がなかった。今初めて百瀬の境遇の一端がリアルに見えた。 「希望すれば行けたんですよ」  百瀬は亜子を励ますように言った。 「児童養護施設にいられるのは、基本的には義務教育までとなっていますが、国から特別育成費が支給されるため、高校進学も可能です。しかし、理事長はわたしに大学進学を望んでおり、高校は行かなくていいとおっしゃったので」 「どういうことですか?」 「独学で大検には受かるだろうから、高校へ行かずに三年間働いて金を貯めろということです。大学の学費は奨学金《しょうがくきん》でなんとかなりますが、四年間の生活費は自己負担です。また、大学で勉強に集中するためには、在学中のバイトの時間を短縮せねばなりません」 「では、中学を卒業して三年間、何をしていたんですか」 「中卒ですから、働き口は限られます。理事長が探してくれて、パチンコ店の住み込みの口にありつけました」 「パチンコ? そこで何をするんです」 「閉店中にフロア掃除をしたり、マシンの整備もします。わたし、機械いじりが好きなので、分解掃除もしました。釘師《くぎし》の師匠に教わって、微妙な調整もできるようになりました」 「じゃあ百瀬さん、パチンコ得意ですか?」 「調整後の試し打ちの時は、みなに驚かれました。一生うちの客にならないでくれと言われました。どの台でどれくらい玉が出るかは、見ればわかります」 「生活費のために、パチンコしました?」 「十八歳未満がすれば、風俗営業法違反です。店が営業停止か罰金の処罰を受けます。わたしは営業時間内はフロアに一歩も入ったことはありません。弁護士を志す者が、法律を犯すわけにはまいりません」  百瀬は珍しく毅然と話し、亜子はそれをたのもしく感じる。  十二年前、世田谷猫屋敷事件の法廷で、被告のおばあさんの立場を丁寧に弁明していた弁護士の姿を思い出した。  中学生だった自分に難しい法律用語はわからなかったけれど、その弁護士の口から語られる言葉は、やわらかく、あたたかく、敵をも包み込む魔法のような力があった。  その弁護士こそ、百瀬太郎である。あのあこがれの人がこうして自分と並んでいることに、亜子は喜びを通り越し、かすかな恐れを抱く。 「法律は人を守る、大切なものですよね」と言ってみる。 「しかし万能ではありません。その力には限界があります。現実は複雑ですから、二次元の紙で三次元のぬいぐるみを包むように、無理があり、しわも隙間もあるんです。それでもわたしは法の力を信じています。わたしにとり神聖なものです」 「中学卒業したばかりで、パチンコ店で働くなんて、たいへんでしたね」 「良い職場だったんです。ダブルワークで、店長の子どもの家庭教師もしていました」 「家庭教師? 小学生の?」 「いいえ、わたしと同じ歳の子がいて、高校へ通っていました」 「中卒のあなたが高校生の家庭教師を?」 「ええ、理事長の推薦があったため、大学生並のバイト代をいただきました。その子の教科書で、三年間フルに勉強できましたし、教えながら学ぶ事ができました。ありがたいことです」  亜子はひとつの映画を見終わったような疲れを感じた。  こういう境遇を生き抜いた人間と、これから共に生きてゆくのだ。自分のような平凡な育ちの人間に、彼のパートナーが務まるか、不安になった。  しばらくして、口が勝手にこう言った。 「パチンコ店の子、男の子ですよね?」 「女の子です」  そう言って百瀬はクスッと思い出し笑いをした。  亜子は胸に痛みを覚えた。 「時間です」と百瀬は言い、立ち上がった。七時五十分。ぎりぎりだ。 「弁当代は」 「結構です!」  亜子は不機嫌であった。「時間です」だって? その子のことを聞かれたくないのではないか。  青春時代の三年間を共に過ごした女性がいる。おお、嫌だ。  百瀬は「また連絡します」と言って、駆け出した。  歩くのは早いが、走るのは遅い。やたらと腕を振り回し、足があとからついてくる。新宿の町を泳ぐように走りながら、百瀬はパチンコ店の二階の部屋を思い出していた。  物理、化学、数学、英語、日本史、世界史。  まっさらな教科書を少女は破き、床に投げつけた。紫色の口紅を引き、制服のスカートは長く、いつも煙草の臭いがした。  沙織《さおり》という名で、暴走族の仲間からサリーと呼ばれていた。  百瀬は沙織が破った教科書をセロテープで修復し、勉強した。  東大に受かると、アパートを決め、店長に別れの挨拶をした。そしてふろしき包みひとつを持って、パチンコ店を出た。  すがすがしい青空だった。  見送る人間はいなかったが、百瀬にとっては人生の門出である。  ふと見ると、二階の窓から沙織がこちらを見ていた。  いきなり「モモ!」と叫んで、何かを放った。  百瀬は走ったが、間に合わなかった。  目の前で、青いりんごがアスファルトに叩き付けられ、くだけ散った。  再び上を見ると、沙織の姿はなかった。  百瀬はくだけたりんごを拾い集め、ふろしき包みに入れた。おかげでランニングシャツに果汁のしみができ、あとで何度洗っても取れなかった。  それが百瀬の三年間である。  百瀬は亜子の表情を思い出す。高校に行ってないと聞いた時の、あの驚いた顔。  何か不安なのだろうか?  自分はラッキーな人間だ。どこでも学べたし、運よく天職についた。  婚約者である亜子にもそう思って欲しい。安心して自分の前でもショートケーキをぱくぱく食べて欲しいと願った。      ○ 「虫取り網買ってきましょうか」  野呂はボスを見上げて言った。  平日の昼さがり。  百瀬は椅子《いす》の上に立ち、キャットタワーにつかまり、片手を上に伸ばしている。そこに巣箱のような猫用ベッドがあり、杉山が籠城《ろうじょう》している。  野呂は椅子をしっかりと押さえている。もし椅子が倒れ、ボスの偉大な脳が床に叩き付けられたら、日本の損失だ。  事務所の中央には、天井から吊るされた立派なオウム用大型ケージがある。七重がカタログを見て注文し、取り寄せた。届いたのは一個で、三人とも安堵した。  が、当の杉山が興味を示さない。餌箱を入れても、入ろうとしない。キャットタワーのベッドがお気に入りだ。  たまに飛び出して、本棚の上にいることもある。あいかわらず関西弁でわめくので、猫たちはすっかり意気消沈し、机の下や床を徘徊《はいかい》するようになった。  百瀬は言った。 「虫取り網、どこに売ってるんでしょうか。最近、見かけませんね」  高所恐怖症の百瀬だが、椅子の上ならば平気だ。手を伸ばし、なんとか杉山をつかまえたいが、杉山はベッドの奥に引っ込んでしまった。あきらめよう。  椅子から降りると、七重が言った。 「今の子は虫をお店で買うんですよ。スーパーで売ってます。昨日も見ましたよ。鈴虫がバナナの横で売られていました。やけに大声で鳴くと思ったら、そばにラジカセがありましたよ」  すると野呂は言う。 「誇大広告ですな。そういうのはいかんです。詐欺罪で刑事告発するべきです」  百瀬はおやっと思った。  いつもは比較的冷静な野呂が、色をなしている。誇大広告にひっかかって、何かを買わされたのだろうか。キャットタワーの代金十七万をキャッシュで払ってくれたが、あの日、何を買う予定だったのだろう? 「誇大広告で詐欺罪は少し無理がありますね」と百瀬は言う。 「ガラスの指輪をダイヤモンドとして売った場合は、買った人間に財産的損失を与えているので、処罰の対象になりますが、鈴虫だと三百円かそこらで、あまり鳴かない、というだけですし、鳴かないといえども、鈴虫は鈴虫です。詐欺と言ったら鈴虫に失礼ですし、訴えるには法的根拠があいまいです」 「じゃあ、鈴虫と書いてあるのに、ごきぶりだったらどうです? 詐欺罪で告発できますか?」  七重が言うと、野呂が笑った。 「その例は現実的ではありません。はいそうですかとごきぶりを買う人間がいますか?」 「あら!」  七重はスコップを振り回して言った。 「今の子はごきぶりを見たことないなんて、ザラです。騙されないとも限りません」  野呂が何か言おうとしたが、七重は「ガラスの指輪と言えば」と話を変えてしまった。ふと頭に浮かぶことを次々口にするのは七重の日常である。 「先生、婚約指輪はダイヤモンド? ルビー?」  百瀬は虚《きょ》をつかれ、うろたえた。 「いいえ、その……」 「まだ? あらまあ、婚約したと言ってませんでした? 指輪をあげないで婚約したとは言えないでしょう」 「そういうものですか」 「親御さんはなんと言っているんです?」 「わたしに父はおりません。母は……」 「先生の親御さんの事情は知ってますよ。お相手のです」 「さあ……」 「さあ?」 「まだお会いしておりませんので」 「会ってない?」  七重はあきれてスコップを勢い良く振り下ろし、猫トイレの砂に突き刺した。 「先生、ほんとうに婚約したんですか?」  百瀬は急に自信がなくなった。 「しっかりしてくださいよ。お嬢さんをください。それを言わないと駄目です。そしてよろしいと言われる。指輪をあげる。お相手がそれを左手の薬指にはめる。そうして初めて婚約したと言えるんです。よね?」  七重は野呂に同意を求めた。が、野呂は反応しない。  いらいらした七重はもう一度言った。 「お嬢さんをください。これは夫になるための通過儀礼ですよね?」  野呂はぼそりと言った。 「そうなんですか?」 「野呂さんだって言ったでしょう?」 「いいえ」 「じゃあおたくは駆け落ちですか?」 「わたし、結婚してるって、言いました?」 「ええっ?」  野呂の言葉に、百瀬も七重も心底驚いた。 「だってそれ、結婚指輪」  七重は野呂の左手の薬指を見つめた。  野呂は明日の天気を語るくらいの自然さで、こう言った。 「ただの指輪です。ここに指輪をしておくと、信用されるので」  百瀬は自分の左手を見た。指輪などはめたことがない。自分は社会的に信用されていないのだろうか?  七重は百瀬に言った。 「独身男が既婚を装うのは、詐欺じゃないですか?」 「刑法の詐欺罪には当たりません。その逆、既婚者が独身を装うよりは、実害がない分、罪は軽いと言えます」  百瀬はそう言って目をつぶり、混乱する頭を落ち着かせると、デスクにつき、仕事を始めた。  七重はそれ以上追及しなかった。法律用語はわからないし、わからない話はつまらない。  百瀬は腕まくりをして書類をめくる。  今関わっているのは、ペット可のマンションでのトラブルだ。  依頼人が住むマンションは大型犬は不可で、小型犬ならばOKだ。そこで依頼人はトイプードルの子どもをペットショップで購入した。  しかし子犬はみるみる大型犬に成長した。トイではなく、プードルだったのだ。ペットショップに騙された。  依頼人は言う。 「たんぽぽちゃんはもううちの家族です。手放せません。けど、お隣から苦情がきました。こっちはもうひたすら頭を下げて、許してもらいましたけどね。腹立たしいじゃないですか。不当表示だとして、ペットショップを訴えたいんです。菓子折り代くらいは取り戻したいんです」  法律的には「錯誤《さくご》」に当たる。「妊娠した良馬だと思ったら、太った駄馬《だば》だった」という古典的案件だ。依頼人の思い込みではなく、店側が「トイ」と表示して売ったので、表意者のあきらかな過失である。意図的な詐欺までは立証できないが、過失責任は問える。  少額訴訟でかたがつく金額だが、ペットショップがブラック会社で、暴力団とつながっているらしく、怖いからと相談を持ち込まれた。少額訴訟は手間取らず、短期で済むため、安易に使われがちだが、のちにトラブルを発生する場合が多い。  杉山もだ。少額訴訟の末、今も百瀬の頭上で「アダチ! キヨタ!」と叫び続けている。百瀬は杉山と暮らし始めて、猫がいかに手がかからない動物かを実感した。  猫はきちんとトイレでいたす。  杉山は口が達者だが、したいときにしたいところでぼとりといたす。  書類も被害に遭ったし、百瀬は頭の上に落とされて、シンクで頭を洗ったこともある。  まだ自分の頭で救われた。七重の頭に落とした日にはいったいどういう騒ぎになるか、想像するだに恐ろしい。  七重は言った。 「愛しているんですよね?」  百瀬は訴状を書くのに没頭していたため、なんのことかわからず、ただ、ぽかんと顔を上げた。 「婚約者のこと、先生はちゃんと好きなんですか?」  ああ、さっきの話の続きか。百瀬は、今言える限りの正直さで言った。 「大西洋で船が沈んだら、彼女に浮かぶ板を差し出し、自分は死ぬ覚悟があります」  七重さんにも板を譲るけれど、というくだりは省略した。話がややこしくなるからだ。 「タイタニックですか? ばかばかしい」と七重は鼻で笑った。 「ジョンでしたっけ」 「ジャックです」 「ジャックが女を板に乗せたとき、わたしは叫びましたよ。逆になさいと。女のあのぽちゃぽちゃした体。脂肪がたっぷりとありますよ。そもそも体脂肪率は女のほうが高いんです。女が水中にいて、やせっぽっちのジャックが板の上にいたら、あと十分はふたりとも命がもったと思いますよ」  百瀬も野呂もこの発言に驚いた。  ローズは太っていた?  独身男ふたりは女優のきれいな顔に見とれて、そのへんに注意を払っていなかった。今度DVDを借りて見直そうと、男ふたりはそれぞれの腹で思った。 「たとえ相手に苦労をかけても、ふたりで生き抜いて、添い遂げる。それが真の男らしさですし、夫婦ってもんでしょうが」  七重はきっぱりと言い。百瀬はその言葉に胸を打たれた。  男と女でこれほど認識が違うのだ。やはり女のほうが一枚うわ手だと感心した。  ベルが鳴り、獣医のまことが入ってきた。 「まこと先生、いつも往診ありがとうございます」  百瀬は立ち上がり、会釈した。  まことはぴゅうっと口笛を吹いた。すると杉山がばさばさと重たそうに飛び、まことの腕に止まった。 「透明人間、見つかったのか?」  まことは言いながら、杉山の羽根のつやを確認する。 「まだです。でも必ず見つけてみせます」と百瀬は言った。      ○  沢村は傘をさしてコンビニに向かう。  深夜の公園を通ったが、さすがに雨の日は無人だ。例の母子に遭遇せぬよう、なるべく雨の夜を狙って外出することにした。  しかし困ったことに、雨の日のコンビニには客がいる。  雨やどりに入るのだろう、沢村よりずっと若そうな、少年と言えるくらいの数人が、雑誌を立ち読みしたり、商品を投げ合ってゲラゲラ笑ったりしている。  沢村は炭酸飲料のペットボトルを二本、カップラーメンを二つ、手早くカゴに放り込み、レジ台に載せた。心得た店員はマルボロ二カートンを加えて会計し、白いレジ袋に入れた。体に悪そうなものばかりで袋はぱんぱんだ。  店を出ると、傘立てに傘がない。  見ると、少し離れた場所に、バイクが三台置いてあり、その周囲で若者がしゃがんだり。バイクに寄りかかって、しゃべっている。みなフード付きのレインウェアを着ている。ひとりが沢村を見て、にやにやしている。手には黒い傘が一本。さしてくるくると回している。  沢村は煙草を濡らさないよう、袋の口をしっかりと結び、雨の中を歩いて帰ることにした。頬に雨粒が当たる。 「サンキュー、兄ちゃん」  背後からからかうような声が聞こえる。  雨はほとんど霧のようで、そう気にはならない。早足で公園を横切ろうとすると、声がした。 「来た来た!」  女の子の声だ。見ると、黄色い傘をさし、こちらを指差している。  ひまわりは女の子の背後にある。「来た」は沢村のことのようだ。今はひげもなく、さっぱりと髪も短い。あの時の男だとわかるのだろうか? 「来た来た! また来た!」  女の子は言いながら、けらけらとうれしそうに笑っている。  そばで母親が「しっ」と注意している。赤い傘をさしている。  沢村はこの母と子はなんなのだと思う。  傘をさしてまで、どうして夜の公園にいるのだ?  通り過ぎようとすると、母親が近づいてきた。赤い傘を差し出して、言った。 「どうぞ」  沢村は緊張し、目をそらすと、黙って歩き続けた。もう雨など降っていない。マンションは目の前だ。早く部屋に入って煙草を吸おう。  その時、大きな声が聞こえた。 「おかあさーん」  沢村は思わず振り返った。同時に母親も同じ行動をとった。  いつのまにか女の子がすべり台の上に立っており、黄色い傘をくるくる回している。  母親は「しずかに」と言いながら、かすかに手を振った。  女の子は笑顔で傘を回し続ける。  その時、風が吹いた。  黄色い傘がすいっと斜めになった瞬間、ふわっと、女の子は落ちた。  落ちた!  なぜ落ちる?  沢村は血の気が引いた。  柵がない階段側から落ちた。風? 強風ではない。  沢村には少女が自ら飛び降りたように見えた。 「きゃあ——————」  叫んだのは母親だ。赤い傘を放り出し、女の子めがけて走って行く。  沢村は体が硬直《こうちょく》したままだ。  うわばきがゆっくりと落ちてゆくのが見える。 「すず、すず!」  半狂乱の母親の声で、われに返った沢村は、すべり台の下に駆けつけた。  女の子はおでこから血を流し、ぐったりとしている。意識はなく、つぶったまぶたの隙間から白目が見える。  母親は女の子のそばに座り込み、「すず、すず」と言いながら、がたがたとふるえている。  沢村は女の子を抱え、走り出す。  ふるえていた母親は、沢村のあとを追った。  すべり台の下に、黄色い傘が残された。骨が一本折れ、歪んでいる。  少し離れた場所で、赤い傘が風に吹かれてくるくるところがっている。  やがて赤い傘は白いレジ袋にぶつかって止まった。  夜間救急外来病棟の一室で、ベッドに仰向けに寝かされた少女は、ぱっちりと目を開けている。おでこには大きめの絆創膏が貼ってある。  少女の名前は田部井《たべい》すずと言った。  母の田部井|陽子《ようこ》はすずの手を握り、丸椅子に座っている。  沢村は少し離れて腕組みをし、壁を背に立っている。 「あんなところから落ちるかな、ふつう」  陽子の声はふるえている。恐怖からまだ逃れられないようで、落ち着こうとしているのがわかる。 「落ちたんじゃないよ」  すずは言った。こちらは落ち着き払っている。 「風に乗ったんだよ」  沢村はおかしさがこみ上げて、くっくっと笑った。  笑いながら、笑っている自分に驚いた。  さっきは母親の陽子と同じくらいの恐怖を感じた。  少女が割れた[#「割れた」に傍点]と思ったのだ。  少女は元気にしやべっている。傷は擦り傷と軽い打撲《だぼく》で済んだ。  すずは沢村に向かってピースをした。  沢村はとまどうが、話しかけられても嫌なので、腕組みをしたまま、小さくピースを返した。  看護師が入ってきた。  ふっくらとしたトトロのような体型で、笑顔を見せながらも、てきぱきと説明する。 「もう遅いので、ベッドはこのまま朝まで使っていいですよ。朝、会計を済ませて帰宅してください」  陽子はうなずきながら聞いている。 「田部井さん、顔色が悪いわ」  看護師は陽子の手首を持ち、脈を診た。 「あちらはしばらく安定してますから、二、三日休んではどうですか。何か変化がありましたら連絡しますので」 「でも」 「長丁場です。あなたが倒れたらおしまいですよ」  陽子はあいまいにうなずいた。  看護師が退出すると、すずが言った。 「いちご牛乳が飲みたい」  陽子は財布を持って病室を出て行った。  沢村は迷った。  このまま帰ろうかと思うか、この子をひとりにしてだいじょうぶだろうか。  このすずとかいう女の子は何をしでかすかわからない。病室に窓がある。この部屋は一階なので、飛び降りたってたいしたことはないが。どうしよう?  看護師の言葉がひっかかる。「あちらは」とはなんだろう?  ここは公園から徒歩十分の場所にある総合病院だ。沢村がマンションに越してきたとき、母の文枝がこの病院のパンフレットを持ってきた。 「何かあったら、ここへ行くのよ。夜間救急も受け付けてるから」  心配性の母らしい行為だ。一度も利用したことがなかったが、活字はすべて読む癖がある。地図も頭に入っていたので、迷う事なく来ることができた。文枝のおせっかいも役に立つことがある。 「お兄ちゃん、さっきのうそじゃないよ」  沢村はすずを見た。  一瞬、すずの顔があいつの顔に見えた。 「落ちたんじゃない。ぼくは風に乗ったんだ」  沢村は目をこらしてすずを見た。あいつではない。もっと小さいし、女の子だ。  すずは真剣だ。 「風って乗れるんだよ。メリー・ポピンズは乗れるよ。傘をさせばいいの。ほんとうなんだよ」  そして大切な秘密をささやくように「本に書いてあったんだから」と付け加えた。  沢村は昔読んだ絵本の一ページを思い出す。メリー・ポピンズ。ただの「つくりごと」だ。この子は信じているのだろうか。信じたいのだろうか。  ふいに、すずは手を差し出した。  沢村はとまどいながらもベッド脇の丸椅子に座り、おそるおそるすずの手に触れた。  するとすずから手を握ってきた。握るというより、つかむという感じだ。  すずの手は汗ばんで、ぺたぺたしている。  とまどっている間に、すずはあっけなく眠ってしまった。  寝息が聞こえる。死んだのではない。  陽子が戻ってきた。沢村はあわてて手を引っ込めた。 「寝ちゃったか。安心したのね」  陽子は微笑んで、テーブルに長方形の紙パックを置いた。いちごの絵が描いてある。  陽子は沢村の肩に手を触れると、手招きした。  なんなんだ。この親子は。なれなれしい。なぜ俺を警戒しない?  陽子は病院の廊下をひたひたと歩いてゆく。  沢村はわけもわからず、陽子のうしろを歩いてゆく。  階段を上り、廊下を歩き、角を曲がり、また廊下を歩いた。そしてまた階段だ。どこをどう歩いているのかしだいにわからなくなってゆく。  自分の作った迷路を歩いているような錯覚を覚える。  一生こうやって陽子という見知らぬ女性のあとを理由もわからぬまま歩き続けるのではないか。そういう人生もありか。と思い始めた頃、陽子は病室の前で立ち止まった。 『田部井|耕平《こうへい》』のプレートがある。個室のようだ。  陽子はドアを開け、中に入った。  沢村は陽子のあとに続いた。  まず音が耳に入った。プップップップッと電子音。心拍数を表す緑色に光る線。  腕に管が刺さった男が、ベッドに寝かされている。  消灯時間はとうに過ぎているのに、病室は明るい。昼も夜も関係ないようだ。 「夫です」  陽子は椅子に座り、男の掛け布団にそっと手をのせた。  田部井耕平は青白い肌をしている。沢村よりずっと白く、死体のようだ。  その白くげっそりとした頬に陽子は触れた。 「ここ、ぱんぱんだったんですよ。日に焼けて黒いおまんじゅうのようでした。お腹が出てきたのを気にして、お弁当のごはんは半分にしてくれって。そう言ったんです、あの朝。そのお弁当を食べることなく……」  陽子のブラウスの襟《えり》から、ほつれた糸がぶらさがっている。 「手術の前ね、動転しているわたしに向かって、この人言ったんです。大丈夫、しっかりしろ、って。それっきりです。ひとこともしやべらない。どこかに行っちゃったのかしら」  沢村はほつれた糸から目が離せなかった。そこから陽子の疲労が伝わってくる。  夫が事故に遭い、ここに入院しているのだ。看護に疲れ、公園に来て息抜きをしていたのだろう。親子共々不安で眠れないのかもしれない。 「この人、ここにいますよね?」  陽子は沢村を見上げた。  沢村はどう答えたらよいかわからず、小さくうなずいた。 「そうよね。たぶん、いるんです。ひげ、生えるんですよ。涙も流します。二度、見ました。生理現象だとお医者様は言いますけどね。妻のわたしのほうがこの人については詳しいんです。今も心はあるんです。ただちょっと、いないふりしてるだけ。いて、きっとわかってるんです。わたしのことも、すずのことも。今日はどうした? なんだその男は? 今きっと、やきもちやいているんだわ」  陽子はほうっとためいきをつき、田部井の胸に顔をうずめた。しばらくすると、寝息が聞こえる。母も子も、他人の沢村に心を許し、寝てしまう。  沢村は点滴の薬剤を見る。心拍数をチェックし、自発呼吸ができていることを確認した。  病室を見回すと、壁に絵があった。  画用紙にクレヨンで花の絵が描いてある。群青色の空に、大輪の花だ。 「夜もいたんだね」と言ってたっけ。  でもひまわりにしては変だ。花びらが赤い。なぜ黄色ではなく、赤いクレヨンで塗ったのだろう?  個室は狭いが、ソファがあり、すずのものらしい絵本や折り紙が置いてある。  ここで何時間も過ごしているのだろう。  クレヨンの箱があった。十二色入りだ。そっと蓋を開けると、使い込んだのだろう、ずいぶん短くなっている。十一本しかない。黄色いクレヨンがない。黄色が好きで、使い切ってしまったのだろう。  オレンジはあるのに、なぜか赤で描いている。なくなった黄色に強いこだわりがあるのだろうか。母親に気付いてほしいのかもしれない。  再び絵を見た。  花びらの赤が痛々しく見えた。    第三章 ゴースト弁護士  ティファニーの銀座本店。  ジュエリー売り場に男と女が立っている。  ふたりはショーケースのまぶしさに、目を大きく開けられずにいる。  この店内において、このふたりはきわめて珍しい客と言っていい。  男の髪は強いくせ毛で左右に広がり、おさまりが悪い。黒い丸めがねはアンティークと言えなくもないが、スーツは言い訳を許さない安物で、靴だけは上等だ。  女は刈り上げ頭で、ベージュのサマーセーターを着ている。スカートと靴については、記述するのもはばかられるあり様で、三つ折りソックスから推測される性格は、「頑固。あるいはいいかげん」だ。  店員はプロである。表情ひとつ変えず、動揺を黒い制服の奥の奥にしまい込んで、真摯に対応する。 「何かお探しですか?」  すると刈り上げ女は勇気を振り絞るように言った。 「指輪を見せてください」  男は言った。 「七重さん、わたしはこういった貴金属を女性に贈るのは、やはりちょっと」 「ちょっとなんですか?」 「そういう器ではないような気がして」 「まさか先生、本気でエンゲル係数を考えているわけじゃないですよね?」 「エンゲージシューズです」  店員の耳はぴくりとし、目が泳いだ。聞いたことのない単語だ。 「信じられませんよ。婚約靴なんて。おかしいですよね、この人」  七重は同意を求めるように、店員に話しかける。 「この人、幸せにする自信がないから、せめて婚約者の足元をしっかりと良い靴で包んであげたいとか言うんですよ。良い靴を履くと人生がしゃんとするんですって。わたしは賛成できません。やはり婚約には指輪ですよね。どう思います? 婚約靴」 「婚約靴というのは……わたくしどもの店では扱っておりませんが」 「婚約の証しに靴だなんて野暮《やぼ》ですよね。靴、欲しいですか? おねえさん」  おねえさんは、顔を横に振った。 「ほうら。やはり指輪ですよね。このわたしだって三十年前、指輪をもらいました。サンゴの指輪でしたけどね。五年経って排水口に消えました。ええ、手を洗ったとき、つるっとね。叫びましたが、戻ってきませんよ。叫んで戻ってくるのは豆腐屋と焼き芋屋くらいで。あ、わかりませんか。お若いからね。でもね、たとえなくしたって、ちゃんと心に残ってます。いいサンゴでした」  七重はダイヤの指輪を指して「大きさはこれくらいありました」と言った。  店員は「ご覧になりますか?」と言って、鍵でケースを開け、指輪を取り出した。 「うわー」  七重は本物のダイヤの輝きに目がくらんだ。  紺色のビロード張りの舞台で、ダイヤはライトを浴び、これでもかと光り輝く。  七重が「お値段は?」と聞くと、店員は「百七十八万円でございます」と言った。  百瀬は「ひゃく」が聞こえた段階で、「やはり婚約靴でいこう」と決意を固めた。  すると七重は再び「うわー」と叫んだ。  値段に驚いたのかというと、違う。七重は外の通りを見て、叫んだ。 「黄色のふんどしです!」  店内の人間は、店員も客もみな、いっせいに七重を見た。  七重は正義に目覚めた目をして、言った。 「いじめに負けないで頑張ってくださいと、励ましてきます」  七重は走って出て行った。銀座通りを髷《まげ》を結った力士が浴衣姿で歩いて行くのが見える。髷は金髪だ。  百瀬はひとり取り残された。  店員はすばやく商品をケースにしまい、鍵をかけた。まぶしそうに目をしばたたかせる百瀬に、店員は言った。 「エンゲージシューズ、悪くないと思いますよ」  百瀬はぱっと明るい顔になり、「そう思いますか?」と言った。 「ええ、隣のデパートは靴売り場が充実しています」  店員は入ってきたばかりのカップルが気になっている。美男美女だ。おしゃれで、この店にふさわしいエレガントなたたずまいである。早く丸めがねを追い払いたい。  百瀬は言った。 「せっかくですが、靴は秋田でと決めているんです。三千代《みちよ》の靴という名の手作りのお店なんです。その人間に合った一生ものの靴を作ってくれるお店です。やはり、エンゲージシューズにします。ご賛同ありがとうございました」  百瀬は丁寧に頭を下げて出て行った。  店員はほっとしてカップルに営業スマイルを送る。  すると美女が美男にささやいた。 「聞いた? エンゲージシューズですって。初めて聞くけど、ここの店員が勧めているんなら、世界的なはやりかもしれないわ」  美男美女は腕を組み、エレガントな足取りで店を出て行った。      ○ 「どれにします?」  春美は何種類ものつけまつげを引き出しから出してみせた。  亜子はぎょっとした。「つけまつげ、つけるの?」  ここは春美の部屋である。細長い十階建てのマンションの七階で、申し訳程度のキッチンと、ユニットバス付きのワンルームだ。亜子がここを訪れるのは初めてである。  春美自身は派手な化粧をしない。なのに化粧道具をしっかり揃えてあり、一眼《いちがん》レフカメラも持っている。会社では見えない一面に、亜子は軽いとまどいを覚える。  百瀬に「写真が欲しい」と言われ、家のアルバムを探したが、適当な写真がない。  ナイス結婚相談所には撮影室があって、カメラマンが常駐《じょうちゅう》しており、社員割引で写真を撮ってもらえる。が、そこを利用すると同僚たちに「見合いするの?」と質問され、わずらわしい。元会員と婚約したと言うのも気が引ける。  そこでひとりプリクラへ行き、写真を撮った。春美に見せると「これでは亜子先輩の個性が出ていません」と言われた。個性と言われても、自分ではよくわからない。首をひねっていると、 「撮ってあげます」と春美が言うので、ついてきた。  部屋は整頓され、モノトーンでまとめてあり、意外とシックで、驚いた。  ピンクのクッションやディズニーのキャラクターであふれていると思っていた。以前、ミッキーマウスの顔が付いたボールペンを使っていたし、プーさんの絵が付いた鉛筆削りも持っていた。 「ディズニー? あれは田舎に帰るときのおみやげですよ。甥《おい》や姪《めい》に配るんです。三歳までは喜びますが、五歳を過ぎると好みがうるさくて、余るんです」  春美は亜子の顔をじっと見て、「つけまつげはやめましょう」と言った。「マスカラをたっぷり塗って、チークとリップは薄めにしましょう」  亜子はおとなしくうなずく。  春美は亜子の頬にブラシで円を描くようにして、ピンク色をのせてゆく。口をとがらせて息を止め、真剣だ。  春美は思っていた。亜子は幸せをほぼ[#「ほぼ」に傍点]手に入れたと。  見合い三十連敗、いや。三十一連敗とはいえ、百瀬は弁護士である。心配なのは亜子の両親だが、百瀬の髪型をどうにかすれば、なんとかなるかもしれない。ここはひとつ、自分がしゃしゃり出て、百瀬を呼び出し、ヘアスタイルのアドバイスをしようとまで思っていた。  しかし先日、担当会員の梅園から百瀬の過去をほんの一部だが知らされた。それで急に心配になった。  百瀬太郎の境遇は異質すぎる。  このまま結婚して亜子は幸せになれるだろうか。  春美にとり亜子は、つき合いやすい先輩である。地方出身で高卒の春美を下に見る先輩たちが多い中、亜子は春美に仕事を丁寧に教えてくれるだけでなく、春美の意見にも真剣に耳を傾けてくれる。女のいやらしさがいっさいなく、手入れをしない眉そのもののまっすぐな性格だ。  そう、この眉はいじってはいけない。春美は亜子の眉を眉ブラシで整えた。  春美は亜子のまっすぐさにいつもまぶしさを感じている。  田舎から出てきて、親に仕送りをしながら生活する春美にとって、小さな嘘《うそ》やズルは生きてゆくための常套手段だ。雨の日に傘をさすように、自然にやっている。  そんな回路がまったくない亜子が、百瀬のような境遇の人間と結婚して、まっすぐなままでいられるだろうか?  おひとよしは、はたから眺めている分には、好ましい。が、家族となるとそうもいかない。  百瀬は身よりもないらしい。結婚したあとに、とんでもない人間が「親です」と出てきて、大借金を背負わされるかもしれない。  亜子には想像力というものがないのだろうか?  いつか亜子はね[#「ね」に傍点]をあげる。「やっぱりやめた」と亜子が言ったとき、きっと春美はちょっぴり落胆する。  亜子にはこのまま、まっすぐでいてほしいという気持ちが、春美の胸にはあった。 「はい、できました」  春美に言われて、亜子は鏡に映る自分を見た。いつもの数倍は美しいのに、自分らしい顔だ。春美の腕はすばらしい。 「撮影しますよ」と言って、春美は白いロールスクリーンを降ろした。      ○  呼《よ》び鈴《りん》を押す。  夜の九時を過ぎ、人の家を訪問する時間ではないが、「十時までは起きている」と大家の梅園は言った。百瀬は残業を片付けた足で、築四十年の日本家屋を訪れた。  百瀬が住むアパートも築四十年だが、四十年の意味が違う。かたや年々価値が増し、かたや価値は下がる一方だ。  五百平米の土地に、二百平米の家だ。すばらしい。都心にあって、建《けん》ぺい率四○パーセント。贅沢なつくりだ。しかも平屋建てである。土地を有効利用しようなどという、ちまちました考えはいっさいないらしい。高層マンションをあざ笑うかのように、この家はあくまでも平らかに地に沿い、下にいて、上を見ず、「ほんとうの贅沢とはなんぞや」と考えさせられる。  玄関の格子戸が開き、梅園が現れた。白地の作務衣《さむえ》に浅葱《あさぎ》色の雪駄《せった》を履いている。「とうとう来たな」  室内からは蚊取り線香の匂いがする。 「夜分にすみません」と言いながら、百瀬は「今夜うちも蚊取り線香をたこう」と思う。  梅園はしわだらけの顔で、しわの一部かと見まごう細い目を片方だけ大きく開いて言った。 「ボロの顔を拝みたくなったか」  百瀬にも意地がある。 「テヌー[#「テヌー」に傍点]は元気にしていますか?」 「連れて帰る気か?」  百瀬は「それはその」と口ごもる。蚊の鳴くような声だ。 「はっきり言いなさい!」梅園は恫喝《どうかつ》した。 「あいにくこっちはモスキート音が聞こえん歳なんでな。腹に力を入れて、低い声でしゃべってくれ」  百瀬はオクターブを下げて「はい」と答える。 「まあ、入れ」  梅園は雪駄を脱いで、部屋の奥へ入ってしまった。  百瀬はあわてて靴を脱ぎ、自分の靴をそろえるついでに、雪駄もそろえた。  上かりがまちの先は六畳ほどのスペースがあり、青畳が敷いてある。  梅園とは二十二年、大家と店子《たなこ》の関係だが、家に上がるのは初めてだ。  奥さんはいるのだろうか?  ぼうっと立っていると「おい!」と奥から声がする。あわてて声の方向に行くと、長い廊下の先に、大広間があった。  畳が多くて数えられない。大きな座卓が小さく見える。  梅園は上座に座っている。背中に床の間があり、掛け軸には達筆とはほど遠い筆づかいで、『かんと』と書いてある。どういう意味だろう? それにしても下手な字だ。百瀬法律事務所の黄色いドアに貼られるらくがきのほうがよほどうまい。  部屋は歴史ある旅館のような立派な梁《はり》と、柱でできている。強度がじゅうぶんな無垢《むく》の檜《ひのき》だ。 「アパートは崩壊寸前なのに、てめえの家は立派だと言いたいのかね?」 「いいえ」  百瀬は観察するのをやめ、部屋のすみに正座した。  たしかにアパートは流行遅れのデザインだし、立派とはほど遠い。しかし家賃の割にしっかりした作りだ。二十二年前、身寄りのない百瀬に部屋を貸してくれる太っ腹な大家は彼しかおらず、選択の余地はなかったが、今のアパートは正解だった。  住んで二十二年、雨漏り無しだ。立派と言っていい。ごきぶりにも人気の物件だ。 「ひさしぶりに今夜は部屋で寝るのか」  そう言われて、なぜ梅園はアパートに帰ってないことを知っているのか、不思議に思う。  杉山がやっとケージにおさまってくれた。これで猫に襲われる心配は無い。しかし一番ほっとしたのは猫たちのようで、机の下から出てきて伸びをしていた。 「女ができたな」と梅園は言った。 「うまくいっているようで、何よりだ」  梅園は満足そうにうなずいた。  女ができたことと、外泊したことは、全く関係ないのだが、どちらも事実ではあるので、否定する理由もないし、百瀬もうなずいた。うなずいてみると、何か非常にうまくことが運んでいるような気にもなり、自然と胸をはってしまう。  それにしてもテヌーはどこにいる?  早く会いたい。今夜はできたら連れて帰り、共に一夜を明かしたい。  しかし梅園はいっこうにテヌーの話をしない。  どこか部屋の奥に隔離《かくり》してしまったのだろうか。押し入れか? 「テヌーをください」とはなかなか言えない。  七重の言葉を思い出す。「お嬢さんをください」  まるで結婚申し込みのリハーサルだ。言いにくさまでがそっくりだ。 「つかぬことを聞くが」梅園は百瀬を見据《みす》えて言った。 「あんた、結婚したら、あそこを出て行くのか?」 「ええ、そのつもりです」  六畳ひと間のあの部屋は、妙に居心地がよく、結婚というはずみでもなければ、出て行けない。 「そのときは」と梅園が言いかけると、にゃおとひと声聞こえた。振り返ると、暗い廊下に黄色い目が光る。 「テヌー!」  黒と茶がまだらにまじった前衛的な柄。ずんぐりした体。元気そうだ。  百瀬は腰を上げ、両手を差し出し、テヌーを抱こうとした。いつもなら手を出した瞬間に胸に飛び込んでくる。が、今夜は違った。 「フー、シャーッ!」  背中を丸くし、四つ足をつっぱり、毛を逆立て、テヌーは百瀬を威嚇《いかく》した。  驚きのあまり、百瀬は絶句した。  何度かまばたきをし、再び見ると、そこは暗い廊下があるのみで、テヌーは消えてしまった。 「ハッハッハッハッ」  梅園は反り返って笑った。 「あんたの浮気がバレたな、ハッハッハッ」  そうか!  百瀬には心当たりがあった。杉山だ。杉山の匂いがしみついて、テヌーに嫌われた。  百瀬はがっくりと膝をついた。 「さっきの話の続きだが」と梅園は言った。 「あのアパートを出る時、りんごの木はどうする?」  百瀬は梅園を見た。 「あのりんごの木は、百瀬さん、あんたが植えたんだろう?」  百瀬はその言葉に驚いた。  入居した日の夜、アパートの脇にくだけたりんごを埋めた。生ゴミとして捨てることができず、いちるの望みを抱いて埋めたのだ。  忘れた頃に、小さな芽が出た。うれしかったが、すぐに大家に摘《つ》まれてしまうと思った。しかし不思議と芽は摘まれず。ひょろりと育ち、二十二年経った。 「生《は》えてきたからには命だからね。せっせと肥料をやっておいた」  あの木を心にとめていた人間が自分以外にもいたのだ。  百瀬は心が芯からあたたまるのを感じた。 「引っ越すとしても、庭付きの家は無理なので」  残念だが置いてゆくしかあるまい。 「わかった。では、ボロはどうする?」 「テヌーは連れていきます」 「好きにしろ」  梅園の言葉は、やわらかかった。  今夜のところは浮気の代償に、ひとりでアパートへ帰ることとなった。  今度テヌーを迎えに来る時は、シャワーを浴びて杉山の匂いを消さなければ。  まるで浮気の痕跡《こんせき》を消すようで、妙な気もする。  ウエルカムオフィスに持ち込まれた離婚訴訟の数を思い出す。そのうちの半数以上がどちらかの浮気が原因だ。  百瀬は不思議でならない。なぜ人は自分のそばにいる人を大切に思えないのだろう? そばにいてくれるだけで、ありがたいことなのに。  アパートが見えた。  階段脇のひょろりとしたりんごの木に「ただいま」と百瀬はつぶやく。  二十二年、この木を見つめてきた。花は咲くが、実はならない。りんごは自家結実性が低いため、もう一本ないと受粉せず、結実しない。  実を結ぶことがなくとも、花は美しい。自分もそうありたいと百瀬は思う。  さびた階段を上り、鍵を開け、暗い部屋に入る。  電気をつけながら思った。  梅園はあの広い家に帰るとき、どんな思いで電気をつけるのだろう。  百瀬は換気のため窓を開け、ポケットから花柄のハンカチを取り出し、洗濯機に入れた。が、すぐに取り出す。自分の下着と一緒に洗っては失礼だ。  洗濯物を取り出し、ハンカチだけを入れ、スイッチオンにする。じよろじょろと水が流れ込む。  蓋をせず、洗濯機の中を見つめた。  水の中で踊るハンカチに「ありがとう」とつぶやいた。      ○  馬鹿《ばか》にしている。  二見純は紙製のコップに入ったまずい珈琲を飲みながら、苦々しく思う。  周囲は若い声が騒々しい。ここはオフィス街のハンバーガーショップの二階である。  窓から蕎麦屋が見える。あそこはまあまあの味だ。どうしてわざわざ待ち合わせにここを指定するのだろう?  周囲に法律王子と気付かれないよう、二見は片手で顔を隠すようにして肘《ひじ》をついている。  待ち合わせは弁護士会館でいいじゃないか。なぜあそこの会議室ではだめなのか。  きっと自分は馬鹿にされている。そう思えば、むかつ腹が立つし、嫌がらせをされているのだと思えば、恐ろしい気もする。  二見は不安で落ち着かず、周囲を見回した。  窓際のカウンターに太った女が座っている。ハンバーガーを手に、携帯メールを打っている。尻がでかい。  田舎の母親を思い出す。毎日テレビにはりついて、息子の活躍を追いかけるように見ていると聞く。ずいぶん待たせたが、やっと親孝行ができた。もっとびっくりさせてやる。田舎に城のような家を建て、周囲を見返してやるんだ。  田舎の小学校では成績がトップだった。親は周囲が鼻白むほど息子自慢をし、農業を継がせずに、息子を東京の大学へやると言って、周囲から総スカンをくった。  家族の期待を一身に背負い、二見は東京の大学へ進学した。両親は手放しに喜んだが、東京の大学にもいろいろあって、二見は自分の限界に気付いていた。  卒業したが就職できず、とりあえず「弁護士を目指している」を装った。嘘を誠にするべく、少しは勉強したが、普通に就職浪人しただけだ。企業を受けまくったが、雇ってくれるところはなく、二年目からは試験勉強に本気を出した。旧司法試験には受験回数制限がなく、何度でも何年でも受けられた。受け続けている限り、親からの仕送りを受けることも免罪される。都合がよかった。  十一回目に受かった。田舎の両親は喜んだが、自分はやばいことになったと感じた。  案の定、研修所で落ちこぼれた。教官たちに取りいって、ごまをすっているうちに、沢村透明の存在を知った。トップの成績で受かったのに、研修所に現れないということで、教官たちの間で話題になっていたのだ。  連絡先をつかみ、家を訪ねた。あいつはあいつで親から独立したがっていたから、互いの利益が一致した。  訴状を書くのも沢村だし、裁判のシナリオも作ってくれる。相手の出方を予測し、何パターンかのシナリオを書く。四葉自動車の訴訟もあっさりと片付けた。  あいつはほんとうに天才だ。  銀座の一等地にある法律事務所ウエルカムオフィス。そこのスターである秦野に、落ちこぼれの俺が勝った。勝ち組の代表みたいな顔が、青くなったのをこの目で見た。  すべて沢村のおかげだ。  しかし……沢村だって落ちこぼれだ。いくら天才でも、あいつはひとりじゃ何もできない。俺があいつを救っているんだ。だからあいつは絶対に俺を裏切らない。一生ふたりで生きてゆくんだ。  約束の時間を十分過ぎて、待ち人は現れた。意外にもトレイにハンバーガーとポテトを載せている。食う気か?  そいつはにこにこ笑って言った。 「二見先生、お待たせしてすみませんね。下、混んでいて、買うのに苦労しましたよ」  秦野である。  そう、顔が青くなったウエルカムの秦野が、本日二見を呼び出したのだ。  二見は緊張して立ち上がろうとしたが、秦野は手で制し、正面に座った。にやりと笑い、てのひらに入るサイズのおもちゃを見せる。  ハンバーガーの形をしたフィギュアだ。 「息子がこれを集めてましてね。協力しているんです。妻はね、こういう店に息子を連れてくるのを嫌がるんです。食品添加物がどうとか、うるさいんですよ。息子は三歳です。先妻の子はすでに成人してますがね、五十でできた子どもはもうかわいくて。わたしが食品添加物を一手に引き受け、生活習慣病すら厭わずに、こうしておもちゃを集めているんです。これって愛でしょ?」  秦野はそう言って、ハンバーガーをひとかじりすると、まずそうにトレイに放った。 「四葉自動車の件は、完敗でした」  いよいよきたか。二見は緊張した。 「ウエルカムではチームを組んで取り組んでいましたがね、君ひとりを相手に四葉を守りきることができなかった。二見先生、君の勝ちです」  秦野は紙製のコップに入った珈琲を飲み、顔をゆがめて、「ブラックでは飲めたもんじゃないですな」と言い、砂糖とミルクを入れた。 「ウエルカムのみんなは君を敵視してますがね、わたしは違う考えを持っているんです。君のような人間は、味方にするべきだと。つまり、ウエルカムにウエルカムというわけで。ははははは」  二見は驚いた。あのトップ事務所が、自分を歓迎すると? 「わたしが君の戦法を見て、感じたことを述べましょう。君は正義の味方ではないでしょう?」  二見は再び驚いた。 「四葉自動車の悪をあばいた孤高の弁護士、と世間は君を持ち上げていたけど、君は勝ちたかったから、勝った。それだけでしょ? もし四葉側だったら、四葉を必死で守った。おそらくどんな手を使ってでも、ね。君は正義の味方なんかじゃない。強欲で、欲に見合った能力があるだけだ」  二見はまずい珈琲を飲んだ。落ち着きたい。 「わたしはそういう人間が好きなんです。正義の味方ってのは苦手なんですよ。昔、うちの事務所にひとりいましたがね。今まで出会った人間の中で、ぶっちぎりの天才です。あんな頭脳を持った男とは、これから先も出会えないでしょう。ところが奴は欲望が欠落しててね。話が通じない男でしたよ」  秦野は舌を鳴らし、手で首を切るゼスチュアをした。 「君をうちに迎え入れたいんだけど、パートナーたちを説得するには、ちょっとした材料が必要でね。簡単な試験をしたいんです」  秦野は上質な革のビジネスバッグから、ぶあついB4サイズの茶封筒を出した。 「うちが顧問をやっている総合病院の訴訟です。患者の家族からの訴えで、医療訴訟なんですが、難しい案件ではありません。原告は苦労している。負けが見えている訴訟を引き受ける弁護士はいなくて、くたばりかけの町弁に泣きついたらしい。スキだらけの訴状ですよ。医療ミスはないと証明し、勝ってください。しかも一回で決める。長引くくらいなら示談交渉したほうが得だからね。これをさっと片付けてくれたら、みんなに示しがつきます。そしたら翌月からうちに来てくれたまえ」  二見はごくりとつばを飲み込んだ。 「あ、まだ聞いてなかったね。うちに来るの、嫌ではないよね?」 「ええ、もちろん。光栄です」 「じゃ、決まった」  秦野は立ち上がった。フィギュアをポケットに入れ、ゴミ箱に近づくと、トレイを斜めにしてすべてを捨てた。紙ゴミもプラスチックもすべてだ。かじりかけのハンバーガーも手つかずのポテトも飲みかけの珈琲もすべてを捨てた。  そして振り返りもせずに、去った。  亜子は蕎麦屋の二階でかきあげ丼を食べている。  携帯メールが来た。 「亜子先輩! そこから見えます? なんと二見純がいますよ」  亜子は向かいのハンバーガーショップを見た。春美はカウンター席なので見えるが、ほかの客はよく見えない。そもそも二見純を知らない。 「二見純?」 「法律王子です」 「知らないけど」 「有名ですよ。猫弁と同じくらいおじさんですが、今日本で一番有名な弁護士です」 「有名?」 「ハンサムで、女性に人気です。テレビに出てますよ」 「ふーん」 「今待ち合わせた相手と話し終わったみたい。こっそり撮った写真添付します。どうです?」 「弁護士のくせに茶髪なのね」 「結婚相手にはこういう人がいいな」 「茶髪でテレビに出てる人?」 「違います。かせぐ人です」 「かせぐ人ならどんな人でもいいの?」 「もちろんです。不細工だって年寄りだって金持ちならいいんです」  春美はそう打ってから、ふと梅園を思った。不細工で年寄りだが金持ちだ。  亜子から返事がこない。蕎麦屋を見ると、亜子はいない。春美は時計を見た。  午後の始業時間を五分過ぎていた。      ○  深夜のコンビニに、今夜は客が自分ひとりだ。  沢村はのんびりと商品を眺めた。缶珈琲とおにぎり三つをカゴに放り込み、カップラーメンを選んでいると、視野の端に文具が見えた。近づいて見ると、あった。  十二色のクレヨンだ。手に取り、そっとカゴに入れる。  店員はいつも通りマルボロ二カートンを加え、会計してくれた。この店の接客マニュアルは「ひげの男がきたら」という文字が消されたのだろうか。  沢村は家を出る時、ひげを剃る習慣を身につけた。あの母子に会ったとき、不審に思われたくないからだ。  店を出て公園に入ると、ひまわりを見た。  今夜もしっかりと咲いている。昼間はどんな顔をしているのだろう? きっと昼も夜も関係なく、まっすぐに立っているのだ。  自分は小さな人間だ。立派な人間を見ると劣等感が刺激されて悲しくなる。しかしこのひまわりの立派さはそれを通り越し、妙にすがすがしいものがある。  沢村はひまわりを背にして、ベンチに座った。マルボロの赤がようこそと誘っているが、今すこし我慢しよう。  腕時計を見る。三時をまわった。今夜はこないのだろうか。  缶珈琲のプルトップを開け、飲みながら待つ。  沢村は充実感を味わっている。  会える会えないは関係ない。  自分が誰かを待っているということが、奇跡のように思える。  百瀬は事務所で仕事に追われていた。  杉山はケージの中だが、今夜は帰れない。  このところ世間ではペット問題が急増し、百瀬の事務所は大忙しだ。  忙しさと収益は正比例しない。百瀬はどんな案件にも手を抜かないため、長引く訴訟をいくつも抱えている。  赤井玉男をパートナーに迎えられたらどんなにいいか。  しかし、彼を猫弁にしてはならない。ウエルカムのホープとしてがんばって欲しい。  透明人間から音沙汰がない。  杉山の少額訴訟は法律王子が片付けた。  その法律王子にはからくりがあると寺本は言った。ブラックな元大物だと寺本は言うが、それが透明人間なのだろうか?  百瀬にわかっているのは、透明人間が杉山の命を救うのに百万払ったという事実だ。きっと心優しい人間に違いない。杉山の里親になってもらいたい。  三時を過ぎ、杉山はもうしゃべらずに寝ている。ときたま寝言のように「オエオエ」とつぶやくのがかわいらしい。 『どついたるねん』はボクサーが主人公の映画で、減量のために吐くシーンがあり、その「おえ」まで覚えてしまったらしい。不器用なタイハクオウムに、百瀬は親近感を覚える。  猫たちは物陰から顔を出し、小声でみいみい鳴いている。天敵・杉山が眠ってからが、猫たちの時間だ。大声を出してはいけない。杉山が目覚める。「アホ、ボケ!」と恫喝されぬよう、静かに鳴き、静かに動いている。  牛柄猫のモーツァルトはデスクに乗ろうとして足をすべらせ、床に落ちた。猫は失敗するとそれを誤魔化《ごまか》すように毛繕いをする。せっせと自分の尻尾をなめるモーツァルトを見て、百瀬はくすりと笑う。  それにしても今夜の猫たちは、いつもと違う。そわそわと落ち着きがない。野呂デスク守衛の黒猫ボコまでがきょときょとと、立ったり座ったりをくり返している。  三時五分。  疲れた。少しだけ横になろう。  百瀬はソファに倒れるように横たわり、一瞬にして意識を失った。  どれだけ寝ていたのだろう?  腕をさわられた感覚があり、目を覚ますと、誰かがこちらを見下ろしている。ずれためがねを定位置に戻して見ると、白く長い髪の男が立っている。 「どちらさまですか?」と聞いても、男は何も言わない。  悲しげな目をしている。よく見ると、左目がにごっている。白内障《はくないしょう》のようだ。 「今、お茶をいれますね」  百瀬は立ち上がり、小さなキッチンで湯を沸かし始めた。 「ちょうど新茶をいただいたところなんです。香りがいいですよ」  百瀬は男を見る。  服は貫頭衣《かんとうい》のようで、あちこちすり切れ、ほころんでいる。臭いはしないが、ホームレスではないかと思う。胸が痛む。  自分は猫や犬を救っているばかりで、ちっとも人を救えていない。  百瀬は香りの良い日本茶をふたり分いれた。  男にソファを勧め、その前のテーブルに湯呑みを置いた。  男は素直に座り、両手で湯呑みを持ち、口をつけて「熱い」と言った。猫舌らしい。ふうふうふうふうと、さんざん冷ました末、茶を飲んだ。前歯がないのか、ぴちゃぴちゃと音を立てて飲む。 「何か召し上がりますか? カップラーメンしかありませんが」  すると男は顔を横に振った。  百瀬は時計を見た。三時五分だ。  不思議だ。  三時五分の数字を確認したあと、ソファに横になったはずだ。眠った記憶もある。ひょっとして、時計が止まっているのかもしれない。窓は暗く、まだ夜は明けていない。  百瀬は男の身元を確認し、今後の生活について共に考えたいと思った。 「煎餅《せんべい》でもいかがですか? 一枚か二枚、もらいものが残っていたかも」  百瀬は再びキッチンに行き、上の戸棚を開けて探した。 「ここ勝手にいじると七重さんに怒られちゃうんですよ。七重さんっていうのは、事務をやってくれている女性でね」 「百瀬先生、ぼくはもうなにも食べなくていいんですよ」  男がしゃべった。声は青年のようだ。 「さっちゃんももうじき来るし、さびしいことは少しもないんだ」 「さっちゃん?」 「さっちゃんのことは、世話になった」 「…………」 「あんたのやりかた、はじめはいやだったよ。でもまあ、ぜんぶひっくるめれば、そうまずくはなかったみたいだ」  男はそう言って、百瀬を見た。片目は見えなくても、しっかりと百瀬を見据えている。どこかで見た目だ。 「あなたは」 「煎餅くれ」 「ああ、待ってて」  百瀬はあわてて戸棚に戻った。手がふるえた。たいそうあわてたため、いろんなものを落っことしてしまった。  個包装の煎餅が一枚あった。煎餅をつかんでソファに戻ると、男は消えていた。  腕をさわられたような感覚があり、目を覚ますと、誰かが立っている。  デジャヴか?  めがねを定位置に戻すと、七重が百瀬を見下ろしている。「先生、だらしないですよ」  ソファで寝ていた。明るい。あわてて時計を見ると、九時を回っている。 「勝手にさわらないでって、言ってるじゃありませんか」  七重は戸棚を指差して、かんかんだ。  戸棚は開けっ放しになっており、茶筒や紅茶の袋などが床に落ちている。 「泥棒が入ったのでしょうか?」  とっさに言い訳をすると、七重は百瀬の手首を握り、勝ち誇ったように言った。 「泥棒はここにいます」  百瀬は手に煎餅を一枚握っていた。袋の中の煎餅は、粉々に割れている。 「お煎餅食べようとして、寝ちゃったんですね」  七重が言うと、杉山が叫んだ。 「オレニモンクアルンカ!」  七重は鳥かごに向かって叫んだ。 「あんたが言うことじゃないです!」  すると杉山は首を傾げた。  最近、杉山は七重の言葉に耳を傾ける。たまに復唱することもあって、そうなると七重も杉山に多少の愛情は芽生えるらしく、寛容な態度で接するようになった。 「アンタ……ジャ……ナイ」 「あんたが言うことじゃないです、ですよ」 「デスデスヨ」 「ですですよ?」 「デスデスヨ」 「あはははははは」七重は楽しそうに笑った。  野呂は出勤したばかりだ。鞄《かばん》を置いたところで、百瀬の異変に気付いた。  ソファに座ったまま、ボスは天井を見ている。何か推理をめぐらしているのだ。  野呂は七重に近づき、静かにするよう、小声でささやいた。七重は百瀬を見て、口をつぐんだ。七重を真似て、杉山も口をつぐむ。  シーンとした事務所で、百瀬はつぶやいた。 「タマオだ」  言った途端、百瀬はぴょんと跳ねるように立ち上がり、電話のプッシュボタンを押し始めた。 「赤井玉男くんですか?」と野呂が言うと、百瀬は早口で言った。 「いいえ、世田谷のタマオです」  相手が出たらしく、しばらく話し込んでいたが、電話を終えると、百瀬はキッチンで顔を洗い、ふきんで顔を拭いた。 「今から浜松へ行きます。すみませんが、留守をお願いします」  そう言って、百瀬は事務所を出て行った。 「世田谷のタマオって、なんでしたっけ」と七重は首をひねる。 「世田谷猫屋敷事件の、老猫ですよ。おばあさんが飼っていた」 「あの猫? 当時で二十なんさいとか言ってましたよ?」 「あれから十二年経ってます。ずいぶん前に里親さんのもとで天寿《てんじゅ》をまっとうしたと聞いています」 「死んだ猫がどうして」  野呂と七重は顔を見合わせた。      ○  百瀬は新幹線の窓際の席で、肘をつき、外をぼんやりと見つめている。  手の甲にはボールペンで小さくトウメイと書いてある。忘れないようにと、着席してすぐに書いたが、発車したとたん、意識から消えてしまった。  窓ガラスにうつる丸めがねが見える。流れる景色にピントが合わない。  黒岩《くろいわ》サチ江《え》。それがその人の名前であった。  周囲に彼女の名前を知っている人間はおらず、みな彼女をネコババアと呼んでいた。  世田谷の高級住宅街の一角。  朽ちる寸前の古いお屋敷で、表札すらない。社会から分断された場所に彼女はいた。鼻から片目にかけてヒトデがはりついたような紫色のアザがある。  彼女はそのお屋敷で生まれ、一度も他人と接することなしに、八十年の時を屋敷内で過ごし、親兄弟は死に絶えた。三十七匹の猫が、彼女と共にそこにいた。  最後に彼女と住んでいたのは家政婦で、出て行ったのか亡くなったのかは不明だが、その人のはからいで、近所のスーパーから定期的に食料と生活用品が配達されるしくみになっていた。  その店の店主も、サチ江と顔を合わせることはなかったと言う。配達品は勝手口の前の段ボール箱に置くだけで、次に行く時には中身がなくなっており、それが唯一の生存証明であった。  料金は十年分を前払いで受け取っていたらしい。  三十七匹をたばねていたのは、推定二十五歳の、長い毛があちこちダマになった老猫タマオで、白内障で左目が灰色に濁り、右目は金色に光り輝き、まるで彼女の保護者であるかのように、その屋敷を守り、侵入者を威嚇した。  ウエルカムで新人弁護士として働いていた百瀬は、上司の秦野から指名され、世田谷猫屋敷事件の担当弁護士となった。近隣住民から立ち退きを訴えられている被告・黒岩サチ江の代理人として、二年かけて紛争を解決した。  サチ江が屋敷にそのまま住み続けるのには無理があった。  近隣住民の要望を受け入れて立ち退くしかないが、それが本人にとって少しでも「明るい未来」となるよう、百瀬は必死に考えた。  遠い親戚は全国に散らばっていたが、彼女の存在を知る者はひとりもいなかった。  土地建物を処分すれば、ある程度の資産ができ、医療設備が整った老人施設に入ることができる。黒岩サチ江はコミュニケーション能力に障害があった。先天的障害ではなく、後天的なものと思われたが、現時点で成年被後見人と認定され、後見人を探す必要があった。  百瀬は資産額を伏せて、全国の親戚一軒一軒を当たり、「できることはします」と言ってくれた家に、彼女を任せることにした。  その家は浜松にあった。広い茶畑を持つ農家で、その家でも高齢者を抱えており、手一杯に見えた。百瀬はその家族の負担を減らすためにも、黒岩サチ江を近くの老人医療施設に入れた。  長年の栄養不良で弱っていた彼女の体には、医療設備が不可欠だった。  黒岩サチ江は字が読めず、書けず、言葉は簡単なものしか話せない。凶暴なところはいっさいなく、猫のようによく眠る。一日に十六時間はベッドの中にいた。  百瀬ははじめの一年間、一ヵ月に一度は顔を見に行った。  猫たちと引き離してしまったことに罪悪感があった。  黒岩サチ江は栄養が足りて、ふっくらとやさしい顔になり、機嫌が良いときは、「かごめかごめ」を歌ってくれた。サチ江が唯一歌える歌で、幼い時に覚えたらしい。   かごめかごめ   かごのなかのとりは いついつでやる   よあけのばんに つるとかめがすべった   うしろのしょうめんだあれ  近所の子どもたちの声を聞いて覚えたのか、実際自分もそうして遊んだのかは定かではない。  歌を歌っている時のサチ江はしごくおだやかであった。  施設に入って二ヵ月くらい経った頃だ。  サチ江は大事そうにぬいぐるみを抱いていた。彼女の孤独を思い、誰かが作ったのだろう。縫い目が粗《あら》い、いかにも手作りのぬいぐるみで、形はくまにも見えるし、猫にも見えた。  ぬいぐるみを膝に載せ、愛しそうになでていた。やはり猫が恋しいのだろう。  これでよかったのだろうか?  前頭葉に空気を送っても、答えは見えない。  サチ江はおだやかだったが、声を出して笑うことはなかった。一度でいい、笑い声が聞けたら、百瀬の心の迷いも消えたかもしれない。  やがて百瀬は独立し、忙しくなった。顔を見に行くのは半年に一度になり、一年に一度になった。  行くたびにぬいぐるみは増えており、それはだんだん猫らしい形になってきて、縫い目もきれいになり、作り手の成長がうかがえた。  浜松の親戚にだいじにされているのだと感じた。資産の管理や税務処理を百瀬は手伝ったが、いつも誠意ある対応をしてくれた。  今日浜松へ行くのも一年ぶりである。  今朝、意識がなくなったという。九十二歳。ここにきてから十二年間、幸せだったはずだと電話の向こうで看護師は明るく言った。  黒岩サチ江は猫のぬいぐるみに埋もれて、眠るように息をひきとったと言う。  百瀬が駆けつけた時は、まだ手にぬくもりがあった。  ぬいぐるみはさらに増えており、三十七個あった。世田谷猫屋敷の猫と同数だ。  看護師も親戚もみな笑顔だ。九十二歳。堂々、天寿をまっとうだ。  百瀬はただじっとサチ江の顔を見つめていた。 「あんたのやりかた、はじめはいやだったよ。でもまあ、ぜんぶひっくるめれば、そうまずくはなかったみたいだ」  夢に出てきたタマオの言葉が頭の中に浮かんで消えた。  看護師が、ぬいぐるみをひとつ百瀬の手に握らせた。 「形見にひとつ、もらってください。あとは柩《ひつぎ》に入れます」  そのぬいぐるみは右と左の目の色が違っている。 「タマオだ」とつぶやくと、看護師は笑った。 「サチ江さんは、あーちゃん、って呼んでましたよ」  あーちゃん? そんな名前の猫もいたのか。  三十七匹の猫の中で、唯一名前を聞き出せたのはタマオだけだった。  初めてサチ江に会った日のことを思い出す。  暗い屋敷の中、老猫を抱いて椅子に座っていたサチ江は、百瀬が何を尋ねても、うつろな目をして、口をきこうとはしなかった。  百瀬はサチ江に話しかけるのをあきらめ、老猫をなで、「お前、名前はなんていうんだ?」と聞いた。すると思いがけず、サチ江がしゃべった。 「タマオ」  か細いハスキーボイスだった。  耳が聞こえ、意味がわかり、言葉を発することができる。そこに小さな希望を見た思いがしたものだ。  おだやかな死に顔には、相変わらず紫のヒトデがはりついている。それもこれも、ついに灰となって消えるのだ。  悲しいような、ほっとするような、ほっとしてはいけないような。落としどころのない思いが百瀬に残る。  葬儀の間、百瀬は上を見る気にもなれず、伏し目がちだった。自然と手の甲のトウメイの文字が目に入る。何度も何度もだ。  サチ江は猫と引き離してしまったが、杉山は透明人間に届けよう。東京に戻ったら、まずそこから始めようと心に誓う。      ○ 「この間の女は気に入らん。別のを頼む」  梅園は額に汗をにじませて言った。  本日、六番室は空調が壊れており、蒸し暑い。 「誰でもいいから紹介しろと言ったのに、一度会っただけでダメ出しですか」  春美は冷たく言い放った。  くそじじい。こちらは必死に合いそうな人を選んでいるのに、すでに三人も一方的に断っている。どういうことだ? 「たしかにわたしは誰でもいいから紹介しろと言った。しかし、誰とでも結婚するとは言っとらん。わたしが自分で選ぶから、片《かた》っ端《ぱし》から紹介しろと言っとるんです」  春美は猛烈《もうれつ》に腹が立った。 「人をなんだと思っているんです?」 「あんたは太めで尻がでかい。安産型で、ひと昔前ならもてたでしょうな」 「わたしのことじゃありません。お相手のことです。真剣にパートナーを探している女性に失礼だと思わないんですか?」 「ずいぶんと正論を吐きますな、お嬢さん。写真と違う女を紹介しておいて、そちらこそ不当表示じゃないですか」  春美が黙ると、梅園は追い打ちをかける。 「三人とも顔が違ってましたよ。かなり修整してませんか? わたしはね、不当表示が悪いというほど野暮な人間ではありません。効果的ならばいいんです。この場合は逆効果ですぞ」 「わたしもそう思います」  低い声でそう言うと、春美は身を乗り出した。 「ここ、会員登録すると、専属のカメラマンが写真を撮りますよね。メイクさんもいて、女性会員の場合、かなり作り込むんですよ。おっしゃる通り、画像データに修整も加えます。おっしゃる通り、逆効果です。会った時、余計にブスに見えてしまいますよね。わざわざ写真でハードル高くしちゃってるんですよ。そこでわたしはね、上に言ったんです。写真は実物より若干落として撮るべきですと。みんな笑ってました。誰も聞いちゃくれません。わたしは高卒ですし、キャリアもないから周囲に馬鹿だと思われているんです。でも、マニュアルが業績の足を引っ張る、ってことが、どの世界にも往々にしてあるんです。ですからわたしはね、実践しました」 「ほう」 「なかなかお話がまとまらない会員さんを自宅に呼んで、撮影するんです。メイクもしてあげます。写真はひどすぎてはだめです。明るくてあか抜けない。少しだけ実物よりイモっぽくします。その写真データをこっそりプロフィール写真と入れ替えておくんです。まだ会社には言ってませんが、それでふたりほどうまくいきそうなんですよ」 「ほう」 「わたしの部屋はちょっとした写真館ですよ。レベルを下げるための写真館です。先日は初めて修整なしのまともな写真を撮りましたけどね。友人が婚約者にあげたいと言うので、それはもう、愛し合ってるふたりですから、気合い入れてかわいく撮ってあげましたよ」 「ほう」 「写真は美しければいいってもんじゃありません。見合いは第一印象が勝負です。会った時に、思ったよりいい女じゃないか、と思わせる。同時に、写真で誤魔化していないという誠実さも伝わるはずなんです。実際のほうが綺麗。このほうがいいに決まっていますよ」  梅園はうむうむとうなずき、腕を組み、何か考えている。  春美は熱弁をふるったのでのどがかわき、グラスに入った冷たい麦茶を飲んだ。  梅園は居住まいを正して、言った。 「あんたに決まりだ。今日でここをやめます」  春美は驚いた。  ひょっとして、みそめられた?  ついに、亜子二号になったのだ。  不細工で年寄りだが金持ちの男が、今この瞬間に手に入った。  ところが次の展開はさすがの春美にも読めなかった。 「二千万円投資する」 「え?」 「起業しなさい」 「どういうことですか?」 「わたしが本気で嫁探しをしていると思うかね? 見込みのある人間を探して、資金を提供し、利益を共有したいと思ってね。探していたんだよ。あんたのように頭を使って生きている人間をね」  春美は息をのんだ。 「人間、学歴やキャリアじゃない。アイデアと欲望こそが成功の礎《いしずえ》だ。あんたにはどちらも備わっている。周囲を見回したが、最近の男はへたれが多くてな。欲はあっても頭が足りん、あるいは、頭があっても欲がない。女のほうがしたたかで、芯がある。ここにくればとにかく女を紹介してくれるからな。芯のある女を探しておった」  春美は胸が躍り、うれしさで頬がかあっと熱くなった。  いよいよわたしの時代が来た! 才能が認められたんだ!  今度は梅園が熱弁をふるい出す。 「世の中のほとんどの奴らは、馬鹿ですよ。一緒に働く人間を探すのに、ハローワークなんぞで求人する。いいですか? 失業して仕事を探している人間なんぞ、ろくなもんじゃない。そんな奴に仕事を任せられますか? 同様に、結婚相手をこんなところへ探しに来る奴は阿呆《あほう》だ。考えてもみなさい。結婚相手に困っている人間を結婚相手に選ぶなんて、金払ってわざわざクズを引かされるようなものだ」  突然、春美は立ち上がり、麦茶を梅園の顔にぴしゃりとかけた。 「帰れ!」  春美は叫んだ。 「あんたみたいな人間は、大嫌いだ!」  春美の声を聞きつけ、七番室から亜子が飛び込んできた。  客は濡れ、春美はグラスを握りしめて仁王立ちだ。  亜子は「申し訳ありません」と言いながら、梅園の顔をハンカチで拭き、室外へ連れ出した。受付からスタッフが二人走ってきて、梅園にひたすら頭を下げている。  六番室に戻った亜子は、春美が立ったまま唇をかみしめているのを見た。 「あのじじい」 「何があったの?」 「わたしにそっくりだ」 「え?」 「嫌な奴」と言って、春美は口をへの字に結んだ。      ○  深夜、沢村はベランダで煙草を吸いながら公園を見下ろしている。  公園の街灯はやる気がなさそうで、たまにふっと消える。眠ったかと思うと、ぱっと点く。その「ぱっ」はやけに明るいが、またすぐ眠たくなるようだ。  街灯だって眠るのに、沢村の頭はこの時間が一番|冴《さ》えている。  昼間は寝て、夜仕事をするのが以前からの生活パターンだが、起きた時にまず公園を見るのが最近の日課となった。ベランダにサンダルもちゃんとある。  あの母と子をしばらく見ない。  すず曰《いわ》く「風に乗った」あの日以来、見かけなくなった。  旦那が目覚めて、自宅療養になったのかもしれない。昼間行動して夜眠る。そんなまっとうな生活を手に入れたのだろうか。それとも本当に風に乗り、どこかへ飛んでいってしまったのだろうか。子どもの頃見たたんぽぽの綿毛を思い出す。  沢村は部屋へ戻った。リビングのテーブルには未開封のクレヨンが一箱、それと花火のセットが一袋置いてある。どちらもコンビニで買ったものだ。  妙なものを買ってしまった。会えたとしても渡せない。使うあてもない。なのに捨てる気にもなれない。  仕事部屋へ行こうとすると、ププッとクラクションが鳴った。  真夜中に信じられない行為だが、その音には若干の遠慮みたいなものが窺えた。起きている人間にだけ聞こえて欲しい。そんな感じだ。  沢村はベランダへ引き返し、下を見る。  ゴールドのポルシェ・ボクスターが公園脇の道路に停車し、運転席の男が手を振っている。  二見だ。  深夜の中央自動車道をボクスターが突っ走る。  スピードメーターは百七十キロを振り切った。屋根がない分、音がうるさく、男二人が無言でも気まずさはない。  助手席の沢村は最高の気分だ。夜景も風も気持ち良い。部屋で仕事して、コンビニに通う生活に、このような刺激がたまにあれば、極上の人生だ。  高速を降り、しばらくすると湖が見えてきた。  二見は湖畔に車を停め、何も言わずに降りた。  沢村も降りた。サンダルで来てしまったことに気付く。ベランダからサンダル履きで部屋を通り、出てきてしまった。帰ったら床掃除だ。  こんなに遠出をするとは思わなかった。暗い湖面に月が浮かんでいる。  沢村は小石を見つけて拾った。  二見は湖を見つめて言った。 「ウエルカムオフィスから誘われている」  沢村は無言で小石を投げる。石は水面をスキップしながら遠くまで飛び、やがて視界から消えた。ポッチャンと、音があとからついてくる。 「お前は知らないだろうが、ウエルカムは立派な事務所だ」  沢村は再び小石を探した。ウエルカムは知っている。日本最大手だ。創業年度も、代表者の名前も、抱える弁護士の数も、過去の実績も知っている。  中でも一番の実績は、世田谷猫屋敷事件だ。しかしそれをウエルカムの奴らは自覚していない。阿呆な事務所だと沢村は思う。最大手だろうが、阿呆は阿呆だ。  あそこにひとり天才がいた。沢村は事件に関する記事を集め、彼が何をどう処理したかを分析した。百瀬太郎。あれはただのおひとよしではない。  ジェレミ・ベンサムの最大多数の最大幸福の原理に基づき、損益分岐点を緻密に探り、現実に叶えうる最高の結論に照準を定め、最高の弁論をし、成果を上げた。  事務所の収益にはプラスにならなかったが、法が人にできるある可能性[#「ある可能性」に傍点]を実証したのは確かだ。  あと十年もすれば、あの事件が法改正の布石になったと、賞賛されることだろう。  いや、天才が伝説となるのは死んだあとかもしれない。ゴッホだってモーツァルトだってそうだ。天才はのたれ死ぬ運命にある。  あの男はペット問題スペシャリストと烙印《らくいん》を押されたが、その認識は間違っている。  弁護士法第一条である「弁護士は、基本的人権を擁護《ようご》し、社会正義を実現することを使命とする」を実行したまでだ。  彼は人権を守った。人間の味方だ。  沢村は思う。頭がいい奴はシンプルだ。頭が悪い奴は本質が見えず、複雑になる。しかし世の中は複雑なほうが賢く見え、シンプルな人間が損をするのが現実だ。 「ウエルカムは俺に宿題を出した」  二見は話し続ける。  沢村は再び石を投げる。石は水面をスキップし、さきほどより遠くでポッチャンと音がした。 「うまいな、お前」  二見は素直に感心し、自分も石を探し出す。適当と思われるものを手に取って、投げる。  どぼん。いきなり水没した。 「くそ」  二見は再び石を探す。 「ひきこもりのくせに、なぜうまい? 速度と角度を計算済み、ってことか? お前、小学校中退だよな。どうしたらそんな脳ができあがる?」  沢村は石を二見に渡す。それを二見は投げる。再び、どぼんと音がする。 「畜生《ちくしょう》。俺、大学行っちゃったから、脳がくさっちゃったんだな」  なげく二見を見て、沢村は微笑む。  沢村は二見が好きだ。この男は自分の限界を知っている。ウエルカムの奴らよりよほど上等な人間だ。それに、自分を実家の二階から引っ張り出してくれた。  二見は沢村にとって唯一の社会との接点だ。二見の留守電の声と、ファクスの音。これは自分にとって大切なライフラインだ。 「司法修習の初日、教官たちが騒いでたぜ、筆記試験トップだったお前が来ないってさ。はりきって定時に席に着いた俺たち全員、どっちらけだぜ。だいたい俺、何年かかってあそこにたどりついたと思う? 腹立つぜ」  二見は沢村から石を奪った。 「お前んちに行ったとき、俺、お前のなまっちろい顔が金脈に見えたよ」  二見はそう言って再び石を投げた。  石は五回スキップして、見えない先で沈んだ。  二見と沢村は目を見合わせる。 「すげえ。俺にもできた!」  二見はガッツポーズをする。 「俺はアホだが、ひとたらしだ。お前は天才だがひとりじゃ生きられない。あのうるさいオカンから独立するには俺が必要だ。わかってるよな? 俺とお前はふたりで一人前なんだよ」  沢村は二見の能弁《のうべん》さにいつもと違う匂いを感じた。  ウエルカムは最大手だ。タレント弁護士としてテレビで活躍するのとは訳が違う。一流の事務所に入れば、生活もつき合う相手も違ってくる。  新しいステージを恐れているのだろう。 「この案件を片付けたらウエルカムに入る。俺の名前だが、実際はお前が入るんだ。よろしく頼む」  マンションに戻る頃には、朝日が昇っていた。  沢村は橙色に染まったリビングで、茶封筒から大量の書類を出した。車で二見から渡された時、その重さに訴訟の複雑さを感じた。  二見の言葉を思い返しながら、一枚一枚丁寧に見てゆく。 「原告側の証人の発言については今まで通り何パターンか想定してくれ。お前の予測ははずれたことはないが、医療訴訟だから慎重に頼む。  原告は患者の家族だ。執刀医《しっとうい》の医療ミスを疑っているが、根拠が甘い。俺たちは病院側、つまり被告代理人としてミスはなかったと立証していく。医療訴訟はたいていがグレーゾーンだ。事実はないも同じ。解釈で攻めろ」  相手は患者の家族。つまり個人だ。四葉自動車を叩くより気が重い。  沢村はためいきをつく。  書類をめくるうち、ハッと手が止まる。  そこに田部井耕平という文字がある。 「患者は消防士だ。消火活動中の転落事故で病院に搬送された。搬送時、意識はあったらしい。肩と大腿部《だいたいぶ》の骨折が見られ、手術後、意識が回復しない。病院は、事故時、骨折のため内出血しており、出血量が多く、血圧が低下し、脳に行く血液量が低下したため、脳が障害を受けて意識が戻らないのだろうと説明しており、手術中の明らかなミスはなかったと主張している」  二見の声が沢村の頭の中をぐるぐる回る。  落ち着こうと立ち上がり、何かが足に当たった。  クレヨンの箱だ。  赤いひまわりが目に浮かんだ。      ○  夕方五時半。帰り道、百瀬は足早にガード下をくぐった。  急がねば。仕事の段取りを頭の中で整理しながら事務所へ戻るところで、手の甲の文字が目に入る。トウメイの文字が消えかかっている。なかなか透明人間にたどりつけない。迷路にいる気分だ。  しかし絶対にあきらめない。決意を新たにするべく。立ち止まり、ボールペンで字をなぞる。  杉山の姿が目に浮かぶ。孤独なオウムに家族を与えたい。  ボールペンを胸ポケットにしまい、歩き始めたところで、背後から声をかけられた。 「百瀬先生」  聞き慣れない男の声に、振り返った。  いきなりガツンと頬を殴られ、百瀬は路上にころがった。幸い受け身ができ、頭は打たずに済んだか、めがねがどこかに飛んでしまい、何も見えない。  ひざまずき、手さぐりでめがねを探す。 「トイでもなんでも、プーはプーだろ!」  ドスの利いた声がして、棒のようなものが振り上げられるのがぼんやりと見えた。  百瀬は咄嗟《とっさ》体を丸め、両手で頭を守った。  高性能な頭脳。これだけを頼りに生きてきた。どこにいるかもわからぬ両親にもらった脳。これだけは死守したい。  腕と指に痛みが走り、下顎に割れるような衝撃があった。  四発めは蹴りだな。  アスファルトを頬に感じながら、猫のように背を丸めた。  血の味がする。何かが舌の上にある。石か? 違う。歯が一本欠けたらしい。 「差し歯はいくらするだろう」と思ったのを最後に意識を失った。  檻《おり》には貧相な四つ足がいる。  毛を刈ったあとの羊のような風体で、夏なのに寒そうだ。 「これ、犬ですか」  亜子は珍しそうに眺める。  柳まことは紅茶を運びながら説明する。 「イタリアン・グレーハウンド。抜け毛が少ないから飼いやすいって、マンション住まいの人間に人気があるんだけど、はしゃぐ気質で、骨折しやすいんだ。ちゃんと散歩に連れて行ってやってれば、そんなに暴れないはずなんだけど。たぶん、散歩をさぼってる。でも飼い主を叱りつけると、うちに来なくなる。来なくなると、ペットの行く末がますます心配だからね。ほんと、人間はややこしい」  まことは苦笑した。小麦色の顔に白い歯が光る。  まこと動物病院の三階は入院施設とプライベートスペースがある。まことはここに住んでいる。動物の急変に気付けるし、夜間の急患も受け付ける。  一階が受付と待合室と診療室。二階が手術室と研究室である。  診療の基本はワゴン車での往診で、治療が必要な場合はここに連れてくる。  週に二回午前中だけ外来を受け付けている。今日はその外来日で、すべてを終えたら三時になってしまった。五時からは苦手な学会だ。  久しぶりに訪ねてくれた亜子と、そう長くは話せない。  まことは亜子が手に持っている箱を見て言った。 「エデンのショートケーキ?」 「先生、好きでしょう?」 「自分だって」  プライベートスペースの丸テーブルで紅茶を前にふたりは笑顔で座った。  三十七歳と二十七歳。年齢差はあるが、姉妹のようだ。  亜子は箱からケーキをそっと取り出し、まことが用意してくれた皿に載せた。  赤いいちごが白い生クリームに映える。 「やっぱケーキはこれだね。シンプルなのが一番だ」  まことは言葉遣いの割に上品にフォークを使う。切るのも刺すのも運ぶのも優雅だ。  一方亜子は不器用だ。ケーキを倒したり。破片をこぼしたりしてしまう。  亜子はまことの手つきを見てためいきをつく。 「やっぱりお医者様一族のお嬢様ですね。フォークの使い方、貴婦人みたい」  するとまことはフォークを皿に置き、手づかみで食べ始めた。 「毎日動物の腹切ったり、縫ったりしてるんだから。指も器用になる」  亜子は紅茶を飲みながら、力なく微笑んでいる。いつもの元気がない。 「どうしたの、亜子ちゃん。今日は猫もらいに来たんじゃないね? 猫弁先生となんかあった?」 「…………」 「いいから言ってみな。恋愛相談は専門外だけど」  すると亜子はまことの表情を窺うように聞いた。 「前から一度聞いてみたかったんですけど」 「うん、うん」 「先生、わたしが百瀬さんと結婚するの、どう思います?」 「どうって……」 「世田谷猫屋敷事件から。もう十年以上、先生は百瀬さんとその、一緒にいたわけだし、少しはその、気持ちと言うか。どちらかに少しは……気持ちがあったんじゃないかと」  まことは目を丸くした。  亜子は堰を切ったように、頬を真っ赤にしてしゃべる。 「ずっと心配だったんです。先生が百瀬法律事務所に通っているの。そりゃあ、猫の往診というお仕事だけど、そのあいだ一緒にいるわけだし、まこと先生は美人だから、男の人は誰だって美人がいいに決まってるし、百瀬さんだってきっとそうです。こんな美人といて、何も思わないわけないです。一度くらい告白されたりしませんでしたか?」 「誰が、誰に?」 「先生が百瀬さんに」 「ないない」 「じゃあ、まこと先生は? あんな素敵な人といて、女として心が動かないわけないかなって」 「素敵な人?」 「ええ」 「まさか亜子ちゃん、嫉妬してる?」  亜子は小さくうなずいた。 「面白い!」  まことは叫び、手を叩いて笑い出した。 「ありがとう、亜子ちゃん。このネタで一ヵ月はうまい酒が飲めそうだ」  まことの笑いはすさまじく豪快で、とまらない。  仕切りのない隣の部屋でイタリアン・グレーハウンドが驚き、不安そうにくーんと鳴いた。 「亜子ちゃん」まことは笑いをこらえながら言った。 「才能だと思うよ」 「え?」 「百瀬を男として好きになる。それはひとつの才能と言っていい。うん、そうだ。突出した才能だ」 「…………」 「興味深いね。生態として研究したい。今後すべての交際を逐一《ちくいち》報告すること!」  亜子はあいまいな顔をして黙った。 「何があった? もっと聞きたいことあるんじゃないか? 言ってごらん」  亜子はうなずいて、バッグから写真を取り出して見せた。 「どう思います?」 「かわいい。いい写真だ。亜子ちゃんの個性が出てる」 「百瀬さんが誕生日にわたしの写真が欲しいとおっしゃるので」  そこまで聞いて、まことは吹き出したい気持ちをぐっと抑えた。三十九のおっさんが、婚約者に「写真が欲しい」だと? まったくもって、あいつらしい。 「それでわたし、こうして用意したんです。できたので、お渡しすると言ったんですが」 「誕生日っていつだ?」 「一週間後なんですけど、電話したら会えないって言われました」 「弁護士は忙しいんだ。そういう時もある」 「一ヵ月会えない、って言うんですけど」 「一ヵ月?」 「そういう時もあるんですか?」  そんなばかな。まことは少し考えて言った。 「亜子ちゃん何も聞いてない?」 「聞いてないって、何を?」  まことはためいきをつき、紅茶を飲んだ。  百瀬は三日前に左手の薬指を骨折し、中指にはひびが入った。歯を一本折り、顔は打撲でまぶたと頬が腫れている。顎は紫色だ。  全治三週間と聞いた。命に別状はないし、事務所にも出て普通に仕事をしているが、婚約者に心配をかけたくないのだろう。  依頼人はペットショップでトイプードルの子犬を買った。  小型犬のはずなのに、大きくなってしまった。依頼人は不当表示だと怒り、慰謝料をペットショップに請求した。大きくたって小さくたって元気に生きている。そのくらい我慢しろとまことなら相手にしないが、百瀬は依頼を受け止め、見事解決した。少額だが依頼人は慰謝料を得て、気持ちがおさまったようだ。  しかしその店はやばい筋とつながっており、案の定、報復があった。  こういうことは初めてではない。  まこと自身も、訪問治療であぶない目に遭うことがしばしばだ。一時はふたりで柔道場に通った。百瀬は攻撃はからきしだが、受け身がうまい。まことは逆だ。攻めがうまくても護身にならないので、すぐにやめてしまった。百瀬はしばらく通っていたようだが、そのうち婚活に忙しくなり、やめてしまったと言っていた。  まことにとり百瀬は戦友のような存在だ。頭が良すぎて理屈っぽく、めんどくさいところのある男だが、けして嫌いではないし、彼女ができたことは喜ばしいと思う。ただ、相手が亜子だということに、多少のひっかかりを感じているのは事実だ。  亜子のことは、彼女の中学時代から知っている。絵に描いたような中流家庭で、すくすくと育った。まことの周囲にはいないタイプだ。堅実で、まっすぐな心を持っている。  そんな亜子には普通のしあわせをつかんで欲しい。収入が安定した男と結婚し、子どもをふたりくらい作って、体脂肪率を気にするおばさんになる。それがもっとも亜子らしいとまことは思う。  やくざに殴られて歯を折るような男と結婚して、幸せになれるだろうか?  第一、百瀬は亜子を愛しているか? 自分の知る限り、百瀬という男は生きるのに精一杯で、女を愛したことはないだろう。  それに、マザコンだ。普通のマザコンならいい。姑《しゅうと》というライバルは目の前にいる。  百瀬の場合、母親とは七歳のときに別れたきりで、音信不通と聞いている。百瀬のマザコンはいわば偶像崇拝である。あれだけ知性があるくせに、ことあるごとに「前頭葉に空気を送る」などと言っては上を見ている。  まことは百瀬が上を見るたびイラッとくる。生物学的にありえないからだ。 「前頭葉に空気? 死ぬぞ」  皮肉のひとつも言いたいが、マザコンに免じて黙認している。  愛すべき友人ではあるが、異性としてつき合うなんて、自分だったらごめんだ。  まあ、自分じゃないから、いいか。  百瀬が怪我を隠したいなら、亜子には伝えずにおこう。 「あいつ今、すごく忙しいんだよ。それはほんとだ。たぶん婚約指輪を買うために、必死で働いているんだな」  亜子の頬がぽっと赤くなる。  まことは感心する。こんなかわいい子に愛されるなんて、百瀬は男冥利に尽きる。彼女いない歴三十九年も無駄ではなかったな。 「写真、渡しておいてあげようか」  亜子はうなずいた。  まことは写真を受け取り、にやりと笑った。 「わたしもひとつ告白しよう」  まことはもったいぶって言った。 「わたしはめんくいだ」  ハッとした亜子に、まことは優しく言った。 「余計な心配するな」  亜子は心からほっとしたように、笑顔を見せた。      ○  公園の街灯は日々やる気を失うようで、ふっと消えるまでの時間が短くなった。  夜中の二時を過ぎた。たよりない光の中、沢村はベンチに座り、煙草を吸っている。  もう三十分は座っているだろうか。  沢村は意を決したように、脇に置いてある『よい子の花火』の袋を破くと、一本の手持ち花火を取り出した。  くわえている煙草の先に、花火の先をくっつける。  目の前でしゅうっと。火花が発射する。  元気いっぱいだ。  上に上げてみる。火の粉が降ってくる。花火の花粉だ。  あっという間に花火は消えた。街灯にくらべ、ずいぶんと気が短い。  消えた花火を逆さにして地面に刺す。  背後ではひまわりがうなだれている。街灯もひまわりも沢村もみな無気力だ。唯一活力のある花火の命は、皮肉にも短い。  沢村は不安になる。こうして無気力でいると、案外長生きしてしまうだろうか。  もうすぐ夏も終わる。  沢村は次々と花火に火をつけ、短い命を抹殺し、しかばねを地面に刺した。長いの、短いの、太いの、細いの、すべてを刺し終え、夏を片付けた。  その夜は仕事をせずに寝た。このところ昼も夜も寝てばかりだ。  寝ていれば仕事から逃げられる。沢村が仕事を嫌だと思ったのは初めてだ。唯一の生き甲斐を初めて嫌悪した。  夢を見た。  音の無い夢だ。夢の中の沢村は子どもで、ずいぶんと陽気だ。大きな口で笑い、何か叫んでいる。やけに楽しそうだ。  やがて空からうわばきが落ちてくる。  すると急に世界は真っ暗闇になり、心細くなる。「ママ」と叫んだが、声にならない。泣きそうになっていると、目の前にひまわりの大輪が現れた。 「夜もいたんだね」  すずの声だ。  ビクッとしたら、目が覚めた。  誰もいない。自分の部屋だ。  陽は昇ったようで、窓がほとんどない部屋でも、うすぼんやりと明るい。ベッドから半身を起こし、沢村は頭に手をやる。髪は五分刈りからそうとう伸びて、スーツを着ればすぐにでもサラリーマンになれそうだ。  最近、沢村は時間経過を自分の髪でたしかめるようになった。  かあさんに切ってもらってから、一ヵ月は経っている。キリストになる前に、かあさんはまたここにくる。キリストになっちゃだめよと髪を切る。  じゃあ、俺はいったい何になったらいい?  寝汗をかいている。そのせいか、のどがかわいた。立ち上がり、部屋を出て、キッチンの冷蔵庫を開く。  牛乳パックを取り出す。賞味期限を一週間過ぎている。口をつけて直接飲む。  すると電話が鳴った。ワンコールで留守電に切り替わる。 「どうせ寝てるわね。まあいいわ。おかあさんよ。ねえ、聞いてよ。この間お友だちと温泉旅行に行ったの。お父さんに、ベンジャミンをちゃんと見といてねって、頼んでおいたのよ。鉢植えのベンジャミンよ。あれはね、わたしの話を長年聞いてくれたから、もう人格があるの。ところがね、帰ってきたら枯れてるのよ。おかあさん、血の気が引いたわ。お父さんったら、見てろって言うから。ただ見ていたんですって。信じられる? 水もやらないで。ばっかみたい」  沢村はぼうっと母親の話を聞いている。 「見殺しって言葉があるでしょ。何もしないのも暴力よね」  沢村はハッとした。  カチリと音がして、録音が終わった。    第四章 モモと透明 「おばさんおはよう!」  七重は叫ぶ。アナウンス研究会の女子高生のように、迷いのない声だ。 「おばさんおはよう!」  烏かごの杉山は頭をかしげている。七重に迷いはないが、杉山にはあるようだ。 「おはようが覚えられないなんて、頭の良いインコとは言えません。どうして映画のセリフはあんなにたくさん覚えたんですかね」  すると帳簿をつけていた野呂がいきなり声をはりあげた。 「透明人間! 透明人間!」バリトンだ。  それに応えるように杉山は「トウ、メイ、トウ、メイ」とつぶやいた。  野呂は勝ち誇ったように胸をそらす。 「男の声のほうが聴き取りやすいのでしょう。男と女では周波数が違うのです。男の声の周波数は四百ヘルツで、女はその倍と言われています。山びこは試したことあるでしょう? 男の声は返ってきますが、女の声は返ってきても、ひじょうに小さい。周波数が高いと、減衰《げんすい》が大きいのです。男の声は十分の一、女の声は四十分の一で返ってくるので、聴き取れないのです」  七重は腹立たしげに言った。 「理屈をこねて教養のないわたしをやっつけようとしてますね? 男は女より優秀だ、って言いたいなら、そう言えばいいじゃないですか」  そのあと七重は心の奥で「独身のくせに」と皮肉った。口に出すとなんとかハラスメン[#「なんとかハラスメン」に傍点]とやらになりかねないので言わないでおくが、左手の薬指の指輪に騙されたのが腹立たしい。  百瀬は片手で書類をめくりながら言った。 「鳥の聴覚は一般的に人より劣っています。可聴《かちょう》周波数は二百〜八千ヘルツ程度です。高いほうにゆとりがあります。男性よりむしろ女性の声のほうが杉山にはよく聴こえているはずですが」 「じゃあなんでおはようが言えないんです?」  百瀬はページをめくる手をとめ、包帯の巻かれたほうの手で、黒い丸めがねを定位置に戻し、七重の目を見て言った。 「言いたくないんじゃないですか? 発音しやすい言葉ですから」  七重はあきれて返事ができない。  百瀬は立ち上がり、ケージに近づいて、杉山を見る。 「杉山は誇り高いのです。そこらへんのオウムと自分は違う、そこをわれわれにわかって欲しい。ですからおはようとこんにちはを拒絶しているのです」  冗談でもしゃれでもなく、百瀬は大真面目だ。それが七重にはわかるので、天才とはこうも阿呆な生き物かとためいきが出る。 「誇り? またアンモニアですか」 「アントワネットです。わたしたちのような庶民《しょみん》とは違うのです。この杉山は」  言いながら、百瀬は右手の人差し指をケージのすき間に入れた。途端、指をかじられる。 「イテ」百瀬はあわてて手を引っ込めた。  七重は百瀬の横顔をじっと見た。内出血はだいぶ引き、痛々しさは軽減された。左手の薬指と中指は二本を揃えて包帯でぐるぐる巻きだ。そろそろ骨もくっつく頃だろう。  愛用の丸めがねはちょうつがいが壊れ、修理に出していたが、今朝戻ってきた。  めがね屋から貸し出されていた仮のめがねは銀ぶちで、それをかけると百瀬はよほど社会に馴染んで見えた。が、百瀬の心には馴染まなかったようで、すぐに丸めがねに戻してしまった。  めがねはまあいいが、髪はもう、どうしようもない。  片手が使えないから、髪を洗えないのだろう。くせ毛はあちこちで束になっており、あぶらっぽく、フケが浮いており、そこはかとなく……臭う。ここまで見た目が落ちると、前はまだましだった、清潔なだけ見栄えがしたものだと思う。  七重は苦々しく思い出す。あのプードルの飼い主は、慰謝料をもらってやけにうれしそうだった。  プードルが大きくて何が悪い? 大きいことはいいことだ。チョコレートだっておまんじゅうだって大きいほうが得、ってものだ。大きいから訴えるなんて七重には理解できない。  そんなわがままな依頼人のためにあくせく働いて、こんな傷を負わされた挙げ句、告訴もしないと言う。理由は「忙しいから」。その頭にみっしりとつまっている法律を少しくらい自分のために使えばいいのに。皮肉のひとつも言いたくなる。 「ぽんぽんは元気ですか」 「たんぽぽちゃんは元気だそうです」  最近百瀬は七重がどう言い間違えようとすばやく正解にたどり着けるようになった。  ベルが鳴った。七重が出る前に、勝手にドアが開いた。 「うっす」  片手を挙げて入ってきたまことは、白衣のボタンをかけず、はだけている。髪はひっつめており、肌はますます日に焼けて、鼻の頭の皮がかけている。  百瀬はそもそもがあれだが、こちらは美人なだけに残念だと七重は思う。  まことは三十代後半、百瀬は三十代崖っぷち。あれ、四十になったかしら。誕生日を知らない。どちらにしろ五十歳の七重からしてみれば、まぶしいほどの若さだ。なのにこうも見た目に無頓着《むとんちゃく》で、いいのだろうか?  七重のおせっかい気質に火がついた。 「まあまあまあ!」と言いながら、いったんキッチンに引っ込み、何かを握りしめて戻ってきた。 「座ってください、まこと先生」 「なんだそれ? 歯みがき?」 「日焼け止めクリームです。ほら、目をつぶって」  おとなしく座ったまことの顔に、七重は中指で丁寧にクリームを塗ってゆく。 「女は二十五がお肌の曲がり角だって言うじゃありませんか。まこと先生も女なんですから、きちんとお手入れしないと」  まことは片目を開けて笑った。 「ほんじゃあ、わたしの場合、曲がって曲がって曲がって、ほらもう元に」 「お静かに」  まことは両目をつぶり、口もつぶった。顔に感じる七重の指は、馴れ馴れしく、それだけにあたたかみがあった。実家の母を思い出す。元気でいるだろうか。 「はい、できあがり」  七重から許可がおり、まことは立ち上がる。  日焼け止めクリームが白浮きした顔で、まことは百瀬に半紙を見せた。 「表のドアに貼ってあった。今日のは珍しいぞ」 『NEKO・BEN』と毛筆で書いてある。筆づかいがすばらしい。  百瀬は半紙を受け取り、興味深く眺めた。 「ローマ字を習い始めたんですね。だとすると犯人は小学四年生でしょう」  七重はけしからんというふうに、半紙を取り上げた。 「はりがみ厳禁、って書いておいたのに」  すると百瀬は言った。 「小学四年生なら、厳禁という文字が判読できなかったのかもしれません。『厳』は六年生で習う漢字です。しかし以前は『猫弁』と漢字で書いてありました。猫は中学で習う漢字ですね。犯人は複数いるのでしょうか」 「漢字を習う学年? なぜそんなことまで知っているのです」 「七重さんも学校で習いませんでしたか」 「ええ、習いましたとも。漢字なんざ、学校以外のどこで教えてくれるって言うんです? でも習った学年なんて。先生は覚えているんですか?」 「ええ、覚えていますよ。小学校で厳を習った日、外は雨が降っていました。わたしはとてもなつかしかったのです。その漢字を初めて知ったのは五歳になる直前で、母の書斎の書物で見かけたのです。画数はほどよいのですが、デザインは左が重たく、あまりバランスの良い字とは言えません。しかしバランスが悪いのは、個性であり。欠点ではありません。四歳のわたしはこの字をたいへん気に入りました。小学校の教室で、そのことを思い出し、今ごろ母はどうしているかと、母のいるところでも、雨が降っているかしらと、あれこれ想像しました。母の上にある空もわたしの上にある空もつながっていると感じ、うれしく思ったものです」  百瀬は天井を見つめた。  まことは珍しい動物でも見るように百瀬を観察した。この男は困った時以外でも上を向くのだ。  見ると、顔のあざは大丈夫そうだ。指も腫れは引いているだろう。欠けた歯も、治療したようだ。そろそろ言ってもよい頃だ。 「今日はボコを引き取りに来た。里親が見つかった」  七重はうれしそうな顔をしたが、想像通り、百瀬の表情は硬い。  しかし最も反応が大きかったのは野呂であった。 「あー、助かりました」  野呂は立ち上がって深呼吸をした。そして机の上の太った黒猫を見つめ、ハハハハ、と笑い出す。 「もうこいつにはいいかげんまいりましたよ。朝出勤すればわたしの椅子で寝ている。どかせばわたしの机で昼寝だ。移動すればついてくる。野呂デスク守衛という任務をハタ迷惑なくらい遂行《すいこう》しとったのですが、奴の働きは明らかに労働基準法違反ですからね。法律事務所の秘書であるわたしとしては、目障《めざわ》りこの上ない存在でしたよ」  黒猫ボコは丸い顔を上に向け、カーッと口を開き、あくびをした。  まことは言った。 「野呂さん、一度くらい抱いてやったらどうですか?」  野呂は両手でバイバイするような仕草で、「嫌ですよ」と言った。 「猫は嫌いなんです、どうぞ、連れて行ってください」  まことは黒猫をキャリーバッグに入れると、「ご近所なんで、脱走して帰ってくる可能性があるが」と言った。  野呂は「そのときは、門前払いしますよ」ともうデスクで仕事を始めた。動揺が隠せず、左足は激しく貧乏揺《びんぼうゆ》すりをしている。  まことはためいきをついた。  こんなに悲しそうな姿を見せられるなんて、ばかばかしい。  ここの猫たちの里親を探すのはもうよそうか。  しかし探すのをやめたら、ここの猫は軽く二十匹を越えてしまうだろう。憎まれ役を引き受けねば、猫にとっても悪環境となってしまう。 「杉山の里親は見つかったか?」と聞くと、百瀬は言った。 「まだ連絡が取れなくて」 「里親を探すか?」 「もう少し待ってください。会いに行き、頼んでみますので」 「住所氏名はわかったのか」 「まだですが、手がかりはあるんです。透明人間がなぜ山田サトシさんの少額訴訟を知っていたかということから、順に説明しましょう。まず、このオウムの訴訟に関わった弁護士は、二見純と言います。現在法律王子としてテレビで活躍しているのですが」  百瀬は延々と透明人間についての推理を話したが、まことが聞いていたのは「手がかりはあるんです」までだ。  百瀬法律事務所とつき合っていたら十年なんてあっという間に過ぎてしまう。  仕事だ、仕事。  まことは「忘れるとこだった」と言いながら、白衣のポケットから一枚の写真を出し、まだ口を動かしている百瀬のワイシャツの胸ポケットに入れ、上からぽん、と叩き、こう言った。 「たまにはそちらで引き取ってくれないか」  まことは白衣をひるがえし、出て行った。  百瀬は写真を取り出し、ハッとした。  七重は覗き込み、いきなり写真を奪うと、「誰ですか?」と叫んだ。  すると杉山が「ダレデスカ?」と復唱した。見事な発音だ。 「大福亜子さん。わたしの婚約者です」  百瀬が誇らしげに言うと、野呂が走ってきて、七重に顔を寄せ、写真を見る。  いかにも若い。色白で、ショートカット。眉は一文字でナチュラルだ。目はまっすぐにこちらを見ている。頬はほんのりピンク色だ。美人ではないが、感じがいい。まっすぐな心が伝わってくる。  七重はまじまじと写真を見て、百瀬の顔と見比べ、「信じられない」と言った。 「先生が婚約したと聞いて、いろいろと想像してみたんですけどね、きっと心根のやさしい女の人だと思ったんです。ボランティア精神にあふれていてですね、菩薩《ぼさつ》のような人だと。そういう人はたいてい、太り過ぎているか、痩せ過ぎているものです。半世紀生きてきたわたしの経験的データによると、博愛精神の人間は、たいがいそういうものですよ。心に美しさを取られて、見た目に残らないんです」  七重は百瀬を見た。皮肉は通じていない。ので、話を続けた。 「でもこの人、ちゃんとかわいいじゃないですか」 「はあ」 「先生、なんと言ってものにしたんですか?」 「ものにした?」 「プロポーズの言葉ですよ」  百瀬は思い出した。自宅アパートの六畳間で、まだ子どもだったテヌーを間にして、ふたりが交わした言葉を。 「わたしと結婚してくださいと」 「すばらしい! 先生、意外とやるじゃないですか」 「大福さんがそうおっしゃって」 「え? 先生、まさか。プロポーズされた[#「された」に傍点]んですか?」 「一応、そういうことでした」 「ほかに何か言われました?」 「誰でもいいんでしょう、わたしが選んであげます、わたしです。大福さんはそうおっしゃいました」 「な、なんですか、それ」 「あの、写真を返していただけますか」  七重は写真を返しながら、言った。 「それで先生は、はい結婚しましょうと言ったんですか?」  百瀬は写真に見とれながら、 「いいえ、たしか……」  そうだ。あのとき。亜子がお茶をいれようとして、自分が茶筒のふたを開けて、そしたら茶葉がこぼれて、「いい香り」と言ったんだ。言ったのは亜子だ。  自分は何をした? 何も言ってない。ひとことも返事をしていない! 「先生、しっかりしてくださいよ」七重は心から心配して言った。 「ほんとうに婚約したんですか?」  百瀬は写真を胸ポケットに入れ、椅子に座った。  仕事を進めねば。しかし。  すっかり自信を失った。  婚約はまだ成立していない。こんなにかわいい人が自分の婚約者のはずがない。そういう気がしないでもなかった。  その日百瀬は仕事を終えると、帰りにスーパーマーケットに寄り、食材を買った。  片手なので手の込んだものは作れないが、あたたかいご飯とみそ汁くらいは自分で作ろうと思う。  長ネギやあぶらあげ、納豆《なっとう》等を買い、カゴをレジ台に置くと、レジ横の棚のかりんとうの小袋が目に入る。レジを待つ間にも買えとばかりに、チョコレートや飴《あめ》が並ぶ中、かりんとうは肩身が狭そうに、ちんまりと置いてある。  テヌーを思い出す。  猫砂のトイレに、一日一回、これとそっくりな小さなかりんとうを落とし、砂をかけて埋めていた。必死に砂をかけるさまがかわいかった。 「食べて、出す。こいつはすこぶる健康だ」と、その臭いすらうれしかったものだ。  このテヌーヘの気持ちは、おそらく家族を持つみんなが日々当たり前のように感じるものだろう。きっと家族とはそういうものなのだろう。  一日も早く杉山を透明人間のもとに届け、テヌーに会いに行きたい。  百瀬はかりんとうの袋をカゴに入れた。  アパートに帰ると、久しぶりにご飯を炊いた。片手での生活にも慣れ、なんとかなった。  丸いちゃぶ台に白いご飯、長ネギのみそ汁、納豆を正三角形の位置に並べる。  少し離してかりんとうの袋。その横に大福亜子の写真を置く。 「ハッピーバースデー」  百瀬は小さくつぶやくと、みそ汁をすすった。四十回目の誕生日の食事だ。われながら、うまい。  誕生日をひとりで過ごすことに、百瀬は寂しさを感じたことはない。  施設にいた頃は、同じ月生まれの何人かとまとめて祝ってもらった。  独立してひとりになって、学問や仕事に忙殺《ぼうさつ》される日々を送っていると、気がつくとひとつ歳を取っていた。たまに思い出して、「今日は誕生日だ」と意識することもあったが、そんな日はなるべく外食を避け、手作りの食事を摂るように心がけている。  ささやかな感謝の気持ちだ。体よ、健康でいてくれてありがとう。  働けるのはこいつのおかげた。骨だって偉い。折れたってくっついてくれる。  母に、生んでくれてありがとうと伝えたい。できたら会って、お礼を言いたいが、そんな日は来るのだろうか?  今日は七重がまことの顔に日焼け止めクリームを塗っていた。じろじろ見てはいけないと思いつつ、うらやましくて目が離せなかった。  母にあんなふうにしてもらったことは、あったのだろうか? あったとして、そのときの母の手は、どんなだったろう?  百瀬は亜子の写真を見る。いい顔だ。  こうして誕生日を思い出させてくれる人がいる。  幸福だ。  しかし、カプチーノに振りかけるシナモン程度の不安要素が存在する。 「婚約したよね?」  百瀬は写真の亜子に問いかけた。  部屋のかたすみで、片目の色が違う猫のぬいぐるみが、そんな百瀬を見つめていた。      ○  地下鉄の車内に丸めがねの男が乗り込んで来た。  男の左手には包帯が巻かれており、やや汚れている。右手で重たそうな紙袋を持っている。紙袋は二重になっており、書籍が詰まっている。  この男は百瀬太郎という名の弁護士で、人畜無害《じんちくむがい》であり、婚約者の手を握ったこともない一級の紳士だということを、車内の誰も知らない。 「正義の味方になるぞ」と強い信念を胸に秘めているが、秘め過ぎて、表にちらりとも出ないのが残念だ。髪などはあきらかに信念の欠落が具現化しており、くせ毛が広がって、フケが目立つ。  車内は空いており、百瀬は珍しく座った。紙袋の底が抜けるのを案じて、足の間の床に置く。  すると少し離れた座席のふたりが目に入る。  幼い女の子とおかあさんらしき女性が座っており、女の子はスケッチブックを広げ、絵を描いている。おかあさんの膝の上にはクレヨンの箱がある。  百瀬は立ち上がり、紙袋を置き去りにして、母子に近づいた。  昼間の地下鉄で、人は少なかったが、一シートに二、三人は乗客がいて、みなハッとした。奇妙な風体の男が、おんな子どもに近づいた。走る車内に逃げ道は無い。  いったい何をするつもりか。車内に緊張が走る。  母親らしき女は、怯えたように百瀬を見上げた。絵に没頭していた女の子も、百瀬を見た。こちらの目には怯えの色が無い。  百瀬は上着のポケットから白く小さなものを出した。  ティッシュにくるまった何か[#「何か」に傍点]だ。  乗客の緊張は頂点に達した。  みな恐ろしいのだろう、母と子を助けに入る人間はいない。 「落とし物です」  百瀬はそう言って、ティッシュを開いてみせた。  黄色いクレヨンだ。短くて、使い込んである。  母親は膝の上のクレヨンの箱を見て驚いた。黄色だけないことに、今初めて気付いたのだ。  女の子は持っていた赤いクレヨンを箱に入れ、百瀬が差し出す黄色いクレヨンを受け取った。  スケッチブックにはひまわりの絵がある。赤い花びらが描きかけだ。 「ありがとう」女の子はまじめくさって言った。 「どういたしまして」百瀬もまじめくさって言った。  乗客の目には一瞬、このふたりが小さな王女と騎士のように見えた。  母親はぽかんと口を開けたまま、何も言えずにいる。  百瀬はティッシュをポケットにしまうと、ゆっくりと元の座席に戻って行った。  百瀬が席に座る頃には、乗客の誰もが、彼の信念を感じ始めていた。みてくれはひどいが、正義の味方なのだろう。きっと、そうだ。  車内の照明は変わらないのに、みな、なんとなく明るい気分になっていた。  早稲田大学法学部の階段を上り、二階の寺本研究室を目指した。  打撲のあとも薄くなり、歩行の振動で痛みを感じることもなくなった。左手の指の包帯が取れたら、髪を洗い、大福亜子に「会いたいです」と電話をしよう。写真のお礼も伝えよう。ハンカチも返さねば。  ドアをノックしようとしたら、開いている。  入ろうとして、ハッとした。  くすくすと押し殺したような笑い声が聞こえる。  見ると、寺本が女性と親密そうに肩を寄せ、キスをしたように見えた。サラリとしすぎて手が切れそうな髪。相手は研究助手に違いない。  百瀬はそっとその場を去った。  階段を降り、外へ出たところで、大隈重信の銅像が見える。  この大学を象徴する像だ。学園紛争時は学生等にペンキを撤かれ、緑色をしていたり、黄色だったりしたと聞いている。今はらくがきすらない。敬意を持たれているのか、無視されているのか。存在感はない。  大隈重信は「人間は二十五年を五回生きる」と言い、人生百二十五歳説を唱えたくせに、自分は八十三歳で死んだ。あと四十二年はどうするのだろう?  百瀬はどうでもよいことを考えながら、ベンチに座り、紙袋を脇に置き、胸を押さえた。上着の下のワイシャツのポケットのここに、大福亜子がいる。 「百瀬!」  背後から声がした。振り返ると、寺本が走ってくる。  寺本は息切れしながら紙袋を持ち上げ、「郵送でいいのに」と言いながら、百瀬の腕をつかんだ。 「いてっ」  百瀬がうめくと、寺本は驚いて手を離した。 「どうしたんだ? その手」 「ちょっところんで」  寺本は百瀬の顔を見る。  内出血はほとんど吸収されたが、やや黄色みを帯びたあとが見える。 「派手にころんだな」と寺本は言った。「珈琲くらい飲んでいけよ。赤井玉男のことで報告があるんだ」  研究室は先日来たときとなんら変化はなく、こぢんまりとしているが清潔で、気持ち良い。  窓からは涼しい風が入ってくる。秋も近い。  娘の写真立てが伏せてある。  寺本は珈琲をいれるのに熱中している。百瀬は椅子に座って、言った。 「資料ありがとう」 「いつでも借りに来いよ。私立大学はすごいぜ。国立とは予算が違う」  寺本はできたての珈琲をカップに注ぎ、百瀬の目の前に置いた。  さきほどの光景がひっかかり、百瀬は飲み込めないでいる。  寺本は椅子に深く座り、足を組み、膝の上で両手を組んで言った。 「赤井玉男、ウエルカムから拒否られた」  百瀬は驚いた。 「そんなばかな。ウエルカムが彼を欲しがったんじゃないのか?」  寺本はうなずいた。 「あの秦野って奴は、くわせものだな。もっといい新人を見つけたらしい」 「赤井くんより優秀な人間がいるの?」 「赤井より金になる人間さ」 「どういうこと?」 「二見純だよ。法律王子の人気に目をつけたんだ」  二見純。彼が書いた少額訴訟の案件を透明人間は知っていた。タイハクオウムの行く末に百万払った男と法律王子。そして法律王子にはからくり[#「からくり」に傍点]がある。 「それで、法律王子はウエルカムに入ったの?」 「いや、まだだ。秦野が顧問をやってる総合病院の医療訴訟を二見にまわして、うまくカタをつけたら、という条件らしい。まあ、形式というか、様式美《ようしきび》みたいなものさ。二見のバックにはおそらく大物弁護士がいるわけだし、かたや原告代理人は町弁で、じいさんだ。商店街のトラブルをちまちま解決して五十年。医療訴訟なんて、無理無理。法廷で恥をかくのが落ちだぜ」  百瀬は世間で自分も同じ言われかたをしているのを知っている。町弁どころか、猫弁だ。  寺本はノートを広げて鉛筆を握った。 「いいか?」  寺本は張り切ってノートに図式を書き込んで行く。原告と被告、その代理人、訴訟のおおまかな設定を説明した。百瀬は東大の図書館を思い出す。こうやってよく法解釈について議論したものだ。  寺本は学生時代と同じ口調で法解釈をとうとうと語り、訴訟の行く末を予測し、果ては下世話とも言えるウエルカムの今後五年間の利益を算出し、「赤井より二見を取るのも、経営者としては納得だ」と結論付けた。  それはいかにも学者的見解だと百瀬は思う。法曹界を上から見た、野次馬的視点ともとれる。  はたから見たら、訴訟も裁判も知的なゲームに過ぎない。しかしそこに運命をゆだねる人間がいる。弁護士は勝っても負けても代理人に過ぎない。当事者にはなれない。  百瀬は訴訟のおおまかな流れを理解したが、ひとことも発言しなかった。  寺本は拍子抜けのような顔で、珈琲を飲み始める。  百瀬はやっと口を開いた。 「赤井くんはどうするの?」 「だいじようぶ。彼はウエルカムにつぐ大手の事務所に入ることになった」 「そう、よかった」  百瀬は立ち上がろうとした。 「珈琲、飲んでいけよ」  寺本は言い、百瀬は冷めた珈琲を一気飲みした。冷めていても、おいしい。  百瀬はさっきから気になっていた写真立てを立てた。ベレー帽の少女が笑っている。  ノック音がして、研究助手が入ってきた。手が切れそうなまっすぐな髪、素顔に赤い口紅があざやかだ。彼女は百瀬に軽く会釈すると、返却した資料を抱え、出て行った。  百瀬は寺本を見て、言った。 「船が沈んだら、彼女にも板を渡すの?」  寺本の顔から一瞬、笑みが消えた。しかしすぐに笑顔が戻った。 「やはり、見られてたか」 「おじょうさんがいるのに、なぜ?」  すると寺本は立ち上がり、窓から外を見た。 「ぼくは君に敬意を払っている。能力にも人間性にもね。けど」  百瀬は寺本の言葉を待った。 「秦野や二見のほうに、より親近感をもつよ」      ○  ファクスは来ない。メールもだ。  二見はいらいらしながらパソコンモニターを見つめる。  青山一丁目にある真新しいビルの一室。  二見法律事務所は、弁護士一名に秘書一名。ネームバリューに対し、極めて質素な人員だ。  応接室はハイセンスだが、書斎と事務スペースはこぢんまりとしている。  もうじき銀座の一等地にあるウエルカムオフィスの一員になる。はやる気持ちがいらいらとなり、二見は書斎で立ったり座ったりをくり返す。  シナリオが来ない。来なければ、始まらない。  ノック音がして、秘書の佐々木桜子が入ってくる。モデルのようなすらりとしたスタイルを黒いパンツスーツに包み、四角くて重そうな黒ぶちめがねをかけている。 「男性が見えています」 「は?」 「予約なしで男性が」  二見は時計を見る。夜九時をまわっている。 「問題外。帰ってもらえ」 「何度も言ったのですが、帰らないんです」 「依頼じゃなくて、なんかの営業か? 用件はなんだ」  佐々木桜子は困ったように「何もおっしゃらないんです」と言った。  二見はハッとして、通すように言った。  応接室で、二見と沢村は向き合って座っている。  佐々木桜子がお茶を出すが、沢村はうつむいたままだ。 「今日はもう帰っていい」  二見が言うと、佐々木は小さくうなずき、応接室を出て行った。 「だいじょうぶか? 電車に乗れたのか?」  沢村は首を横に振った。 「タクシーか。メモを見せたんだな」  沢村はうなずいた。 「よく来れたな。いったいどうした?」  沢村は青白い顔、髪はさっぱりと常識的長さで、ひげも生えていない。ジーパンに黒いシャツを着ている。もとがいいから、ハイセンスな応接室に負けてない。 「七十二番のシナリオ、てこずっているのか」  すると沢村は上目遣いで二見を見た。上目遣いなのに、偉そうだ。 「折半じゃ嫌か? じゃあ、そっちが六でこっちが四でいい。とにかくこれはひとつの就職活動だ。早ければ早いほどいい。楽勝だろ? お前には」  すると沢村は絞り出すような声で言った。 「降りる」  途端、二見は立ち上がった。 「お前! とうとう口をきいたな」  沢村は震える手でポケットから煙草とライターを出した。  二見は沢村から煙草を奪い、備え付けのライターで火をつけ、これみよがしに吸う。 「やれ」 「嫌だ」 「なぜ?」 「ミス」 「なんだと?」 「医療ミス、あったかもしれない」  二見は笑い出す。 「馬鹿か? お前。俺たちは警察じゃない。依頼人の利益を守るのが弁護士の仕事だ。真実なんて関係ないんだよ」  二見は咳《せき》き込み、煙草を灰皿に押し付けた。 「十年の禁煙がパー、だ」  二見は沢村を睨《にら》んで言った。 「弁護士の仕事を全然わかってないな」 「俺は弁護士じゃない」  すると二見は沢村の湯呑みを奪った。 「ああ、お前は弁護士じゃない。ゴーストだ。弁護士はこの俺だ。決めるのは俺だ」  そう言ってお茶を飲みかけ、急にはずんだ声を出した。 「茶柱が立ってる! ゲンがいい」  すると沢村は立ち上がり、二見から湯呑みを奪い返そうとし、それを二見が避けようとして、湯呑みが床に落ちた。  カチャリと音がして、湯呑みはふたつに割れた。  床にうすみどり色の水たまりができた。  沢村は急にカタカタと震え出し、幼児のようにうずくまる。 「透明《とうめい》?」  二見は沢村の顔を覗き込み、ハッとした。すっかり血の気が引き、息をするのもしんどそうだ。 「とにかく今日は帰れ。俺が車で送ってやる」するとドアが開き、帰ったはずの佐々木桜子が顔を出し、車のキーを放った。  二見は驚きながらキーを受け取り、秘書の聴力に恐れ入った。      ○  総合病院の正面玄関はすでに暗い。  百瀬は夜間救急外来通用口を通り、中に入った。  時間外の患者はいないらしく、ナースセンターで看護師たちがお茶を飲み、談笑している。  百瀬は暗い廊下で館内地図を探し、エレベーター脇にそれを見つけ、覗き込んだ。  すると背後から声をかけられた。 「夜間外来受付は向こうですよ」  振り返ると、看護師がいて、百瀬を見つめている。ふっくらとして、トトロのような体型だ。 「外科に用ですか?」  看護師は百瀬の左手の包帯を見ている。 「いいえ、これは違うのです。入院患者のことで、お聞きしたいことがあって」  百瀬はそう言って、右手で名刺を取り出そうとした。  すると看護師は言った。 「モモ?」  百瀬は看護師の顔を見た。  しもぶくれでおかめのような顔。そっけなく後ろでまとめた黒髪。立派なおばさん体型。記憶力には自信があるが、見覚えは無い。 「モモ! あんた、ちゃんと弁護士になってんじゃん!」  看護師は急にはすっぱな物言いをし、百瀬の上着の襟をわしづかみにしてバッジを確認した。  百瀬の頭は混乱した。声には聞き覚えがある。が、目の前の顔は別人だ。 「あんたがわからなくても、アタシにはわかるんだよ。ほら、動かぬ証拠だ」  そう言って看護師は百瀬の丸めがねを奪い、おどけたように、かけてみせた。 「度が進んだね」  トトロは目がくらんだらしい。あわててはずすと、百瀬に返した。  百瀬はめがねをかけ、信じられない気持ちで、おそるおそる尋ねた。 「ひょっとして、沙織さん?」  看護師はうなずいた。 「さすがのモモにもわからなかったか。三十キロ太ると、こうなるんだよ」  百瀬は絶句した。 「あんたは相変わらずだね。ちっとも変わってない。ん? ちょっと臭うぞ」  沙織は百瀬の髪をくいくいと引っ張った。  数分後、百瀬は入院病棟の入浴室で仰向けになり、シャンプーされていた。服はもちろん身に付けている。 「いい」と言ったのに、沙織は洗うと言ってきかず、そこはそれ、昔の力関係は健在で、さからうことはできない。  正直、気持ちがよい。床屋のシャンプーと違い、あおむけは楽だ。 「患者の髪を洗うの得意でさ、みんなあたしにやってって言うんだ」  誇らしげに言う沙織の言葉に間違いはなく、頭皮がマッサージされて、頭がすっきりする。疲れも取れる。  気になるのは、顔に沙織の白衣の胸が当たることで、それも胸というよりただの贅肉にほかならず、いかがわしさはない。母親に抱かれるって。こんな感じなのだろう、 「親父さん、お元気ですか?」 「とっくに死んだ」  沙織の言葉に余計な感情はなく、かなり「とっく」なのだろう。 「モモが出て行って、一年くらい後かな、交通事故で死んだ。電柱にぶつかって、自損事故って言葉、その時に覚えた。アルコールが検出されたし、スピード違反もしていたし、同情の余地なしだわ」  百瀬は黙って聞いている。 「それでパチンコ屋は人に譲って、あたしとママはアパート借りたの。ママは掃除のおばさん、あたしはもっと実入りのいい仕事をしてたんだけどさ」  沙織はシャワーで泡を流し始めた。器用なもので、顔にはかからない。 「アパートじゃ眠れないんだ」 「わかります、沙織さん」 「やっぱモモも? あのパチンコのうるさい音、消えろ! って願ってたけどさ、あの音がないと。シーンとしすぎて」 「無音が鼓膜を圧迫する感じ」 「そうそう、半年くらいは慣れなかった」  沙織はタオルで百瀬の頭をくるみ、リクライニングチェアの背を立たせた。  百瀬がタオルを受け取り、片手で髪を拭いていると、沙織は白衣のポケットから丸めがねを出して百瀬の顔にかけた。 「骨がくっついたかどうか、診てあげる」  沙織は包帯を解き、百瀬の指をさわった。握ったり伸ばしたりさせた後、「これからはよく動かして、血流をよくしたほうがいい」と言った。  あの沙織にこうして労《いたわ》られていることに、百瀬は感慨があった。 「おかあさん、お元気ですか?」 「突然アパートから出て行って、置き手紙があった。その仕事はやめなさい、だって。女ふたり食べていくにはしかたないのに、嫌だったんだね、娘の仕事」  沙織はふふふと笑って言った。 「パパもママもいなくなって、途方に暮れたよ。思い出したのは、モモ、あんだ。とうとうあんたと同じ状況になったんだなあって。やっとあんたの気持ちがわかったよ。とことん不幸だと、グレてらんないね。で、あんたの真似してみた」 「真似?」 「勉強ばっかりしてたろ? あたしもやってみようと思ってさ。金、ないし、頭、ないし、どの勉強ならできるか、人に聞いてみたら、住み込みで働きながら、看護学校に通わせてくれるって病院があって」 「ここ?」 「ううん、もっとちっさいとこ。勉強って言っても、ずっとさぼってたから、かけ算からやり直し、って感じ。でも勉強してると、なんかこう、明るい未来に近づいてるかも、みたいな。そんな気がして、悪くなかったよ」 「がんばったんですね」  百瀬は感心した。 「モモ、そういえば何しに来た?」 「消防士の田部井耕平さんがこちらに入院してたと思いますが」  沙織はパチンと指を鳴らし、「あんた、どっち側の弁護士?」と興味深そうに聞く。 「患者側でも病院側でもないのですが、少し気になることがあって」 「あたしも気になってんだよ。入院病棟で担当看護師のひとりだったんでね」 「田部井さんは今」 「転院したよ。訴訟を起こした病院には居辛いだろ」 「転院先は」 「その前に、ちょっと見てくんない?」  沙織はあたりを窺いながら。百瀬を廊下に連れ出し、階段を上り、さらに奥の部屋へ向かった。  暗い部屋の照明をつけず、奥にあるパソコンを起動した。まぶしい。光が目に痛い。  沙織は一本指打法でキーを連打すると、「これこれ」と言って、百瀬にモニターを見せた。  それは田部井耕平の電子カルテだ。  事故の日時、入院時の検査記録、手術の経過、薬の投与記録などが克明《こくめい》に記載されてある。  百瀬は事故の日時に心当たりがあった。  カルテは膨大だったが、すべてに目を通した。 「医療ミスなの?」沙織は言った。  百瀬は驚いたように、「これだけではわかりませんよ」と言った。  医療ミスは簡単じゃない。門外漢の自分がカルテで判断することは不可能だ。ただ、百瀬の知識では、違和感を覚える薬品投与も、処置も、このカルテ上では見当たらない。  しかし百瀬は覚えている。あの消防士は意識があった。はっきりと。  沙織は百瀬の髪をつかんで、うしろにぐいっとひっぱった。 「何をするんです?」 「ほら、前頭葉に空気送ると、なんでもわかるとか言ってたろ?」 「い、痛いです」 「空気送って、助けてやってよ」  百瀬はおとなしく天井を見た。  医療ミスの件はともかく、沙織が何を言おうとしているのかはわかった。  沙織は手を離し、「ちょっと待ってて」と言って、いったん消えた。  その間、百瀬はパソコンの輝度を下げ、カルテをもう一度見直した。一言一句、すっかり頭に入れた。  沙織は戻って来ると、画用紙を見せた。  赤いひまわりの絵だ。背景は群青色で、夜のひまわりだ。  電車の女の子を思い出す。 「病室に貼ってあった。田部井さんには五歳の娘さんがいてね、おとうさんが買ってくれたクレヨンで、いつも絵を描いてた。奥さんは思い詰めちゃってて、いつ夫が目を覚ますかわからない、覚めたときにいてあげたいって、夜中まで付き添ってるのよ。少しは外で遊ばせないと、子どもの成長に良くないですよと言ったら、この近くの公園に通ってたみたい」  沙織はパソコンを終了した。 「消防士の旦那さんは、いつも、命をはって人を守る、って奥さんに言ってたらしい。だから、悲しいけど、仕事でこういうふうになってしまうのは覚悟の上なんですって。医療ミスを言い出したのは旦那さんの実家の方みたい。妻は夫をきちんと守るべきだ、って重圧があって、弁護士に相談したら、何人も断わられて、やっと一人引き受けてくれたらしい。あたしは手術に立ち会ったわけじゃないし、難しいことはわからないけど、田部井さんのお世話をした身だから。少しでも楽になってくれたらと思う」  百瀬は沙織がやさしくなったと思った。 「調べてみます」と百瀬は言った。  沙織は外来通用口まで送ってくれた。  百瀬は振り返って言った。 「その後、おかあさんの消息は?」 「わからない。たぶんどっかでくたばってる」 「…………」 「そんな顔しない。あたしゃもう三児の母なんだ。ちゃんと家庭があるんだから」 「そう」 「モモ、あんたはおふくろさんに会えた?」 「まだです。でもたぶん……生きています」  すると沙織の携帯電話が鳴った。  百瀬はぺこりと頭を下げて、去って行く。  沙織は電話に出た。自宅からだ。 「なに? とうちゃん酒飲んで寝ちゃった? いい、ほっておきな。ん? 三人ともお風呂に入った。えらい。宿題もやった。えらい。なに? テストで六十点? 太郎、あんた天才じゃん。ママその半分も取れなかったよ。あんたはママの希望の星だ。愛してるよ、おやすみ」  沙織はチュッとキスを送り、電話を切り、闇を見つめた。  いつかまた会える。 「ばいばい、モモタロー」  百瀬は沙織に教えてもらった公園に行ってみた。  誰もおらず、街灯はさびしそうにちかちかしている。ベンチの向こうでひまわりがしおれて茶色くなっている。  ひまわりの絵を思い出す。  夜。ここで咲くひまわりは、子どもの目に力強く、太陽のように見えたのだろう。  いや、そうじゃない。きっと昼間の太陽に会いたかったのだ。もの言わぬ父、憔悴《しょうすい》し切った母を目の前にして、「太陽の下で走りたい」と言えなかったのだろう。  百瀬はベンチに座ってみた。包帯の取れた左手の甲に、トウメイの文字がうっすらと残っている。遠くにコンビニの光が見える。そこだけが生き生きと明るい。  りんごの木に花が咲くことを、沙織に伝えればよかった。      ○  春美は屋上のベンチでココア豆乳を飲みながら、サンドイッチを食べている。 「ひとり飯はきつかったですよ」  吹き抜ける風が心地よい。秋の訪れと共に、屋上ランチの再開だ。  亜子は弁当を膝にのせ、春美の横で微笑む。  結局春美はハンバーガーショップしか行けず、見える場所にいてくれと言うので、亜子は夏中同じ蕎麦屋で昼食を摂り続けた。  塩分過多な夏になった。熱中症は避けられたが、蕎麦はもう見るのもうんざりだ。 「先輩、わたし、くそじじいから文《ふみ》をもらったんです」 「ふ、文?」 「ええ、手紙じゃなくて、文、って感じ。見ます?」 「いいの?」  春美はポーチから文[#「文」に傍点]を取り出し、亜子に渡す。  白くそっけない封筒から、折り畳んだ和紙が出てきた。巻物のように長い。  毛筆の字がところ狭しとつらなっている。笑ってしまうくらい、下手な字だ。  七十二歳で字が下手というのは、意外だ。下戸のアイルランド人もいるだろうし、キムチが苦手な韓国人もいるだろうが、これが七十二歳の文字とは思えない。 「春美ちゃん、これ」 「読めないですよね?」 「ええ」 「古文書かよ、ってツッコみたくないですか」 「特別な流派の書体なのかしら。わたしの教養では理解できないけど」 「はいはい、亜子先輩の愛する猫弁太郎なら解読できるって言いたいんでしょう?」  亜子に冗談は通じず、「百瀬さんに頼んでみようか」と言うので、春美は文を奪い返した。 「ご心配なく。もう本人に聞きましたよ。電話をかけて、言ってやりました。あなたの字は汚くて読めません。ワープロで打つか、今ここで口で言ってくださいってね」 「まあ」  亜子は梅園に同情した。お金を払って結婚相談所に登録し、担当職員から麦茶をかけられた挙げ句、手紙を書いたら「口で言え」とは。  春美はあの件で普通ならクビになるところだが、梅園が所長に「空調がきかんで暑くてな、冷たい茶を自分でかぶった」と言い張ったので、処分はまぬがれた。 「梅園さんにお礼も言わずに、そんなふうに冷たくするなんて」  春美は笑顔で言った。 「この手紙、謝ってるんですって。どうやら、ごめんなさい、ってことらしいんですよ。梅園さんが言うにはですね、あんたもじじいになればわかるが、若者に対してそう素直にものを話せないんですって。ですから言ってやりました。わたしは一生じじいにはなりませんと。するとあいつ、ばばあになったらわかると言いました。そして、わたしに二千万を投資したいという申し出は本気なので、真面目に考えてくれと言うのです」 「二千万?」 「独立して、なんでもいい、事業を起こしなさいって」  春美はそう言って、ちらっと亜子を見た。亜子は黙って何か考え込んでいる。 「きっと冗談です。さびしいから話し相手が欲しいんですよ。お金でわたしの気を引こうとして」  すると亜子は言った。 「梅園さん、見る目あるのね。わたしも、春美ちゃんは、何かこう、世の中を変える力を持っているって、前から思っていたんだ」 「そうなんですか?」 「ここにいる器じゃないもの。二千万もらって、やってみたら」  春美は驚いた。  亜子は平凡を絵に描いて額にはめ込んだような女性だ。しかしこのわたしの能力に気付いていたとは、人を見る目があるんだ。  春美は言った。 「猫弁太郎、一ヵ月会えないってあやしくないですか?」 「あやしい?」 「一ヵ月って言えば、女関係を清算する時間稼ぎの平均的期間です」  亜子の顔はひきつった。  百瀬は家庭教師をした子のことを「女の子です」と言い、クスッと笑った。何か良い思い出があるに違いない。きっと、美人で清楚な女の子だ。バレンタインにチョコレートクッキーを焼いてくれたのではないだろうか?  春美は笑った。 「冗談ですよ。彼女がいたら結婚相談所に三年も通いますか?」 「ああ、そうよね」 「まったくもう、結婚まで百年かかりそう。先輩、次に進むべきです」 「次?」 「何年ここに勤めてるんですか。結婚へのアプローチ、頭に入っているでしょう?」 「はあ」 「先輩、猫弁とそっくりですね」 「わたしが?」 「人のことはてきぱき面倒見るのに、自分のことはさっぱり駄目」  亜子はふうっとため息をつく。春美の言う通りかもしれない。 「猫弁太郎と大福亜子の結婚プロジェクトを立ち上げます。わたしが先輩の結婚アドバイザーです。相談料金は一回につきケーキ一個。いいですか?」 「はい」 「まずは親に会わせる」 「親?」 「亜子先輩のお父上に猫弁太郎を会わせるんです」 「それは……」 「勇気を出して言ってみるんです。父と会ってくださいって。はいと言ってのこのこ来れば、彼、本気ですよ」  亜子は「なるほど」と言ってためいきをついた。  たしかにそうだ。そうすれば、百瀬の決意のほどが窺える。しかし問題は父だ。あの頑固《がんこ》で了見の狭い父と百瀬を会わせる勇気が自分にあるだろうか。  春美はあの父を知らないのだ。  はたから見れば、亜子は確かに苦労知らずのお嬢さんに違いない。が、あの頑固な父と折り合って生きてきたという点では、そこそこ亜子も苦労人なのであった。  春美は「ケーキ一個ですよ」と言いながら、スマートフォンでおいしいケーキの店を検索し始めた。  青山一丁目の二見法律事務所の狭い書斎は、煙が充満している。  灰皿に何本もの吸い殼があり、二見は汗をかきながら電話に出ている。 「簡単ですよ。あんな訴訟は。ははははは。今ちょっと別件が立て込んでいるので、事務的に遅れていますが、絶対勝てます。それより秦野先生、一度ウエルカムを見学させてくださいよ。一緒にやっていく先生方にご挨拶もかねて。はい、それはもう、大丈夫なんで。あと少し、あと少し待っててください」  二見は受話器を置くと、頭を抱えた。  するとカタカタジーと、ファクスが流れてくる。  二見は飛びつくようにファクスを見る。送信元は沢村だ。 「よしよし、いい子だ。透明。この調子でビッグになろうぜ」  二見は胸をなでおろし、内線電話をかけた。 「佐々木くん? 煙草は全部捨ててくれ。今日からまた禁煙だ」      ○  百瀬は下町の商店街を歩いていた。  平日の昼間なのにシャッターが目立つ。大手スーパーの台頭で、昔ながらの小売店は虫の息だ。  数メートル先を三毛猫が横切る。ちらっと赤い首輪が見えた。飼い主がいることに、ほっとする。 「そこのおにいさん」  傾きかかった果物屋から、女性が声をかけてきた。 「スイカ、いいのがあるよ。今朝入ったばかりで、上物だ」 「いえ、わたしは」 「今からよその家に行くんだろう? 手みやげ無しはないんじゃない?」 「はあ」 「ほら! 安くしとくから。いい? 手みやげは重たいほうがいい。誠意が伝わるってものよ」  一分後、百瀬は重たいスイカをぶらさげ、果物屋に教えてもらった場所を目指した。  それはすぐ向かいの、かろうじて開いているほこりっぽい時計修理店。その二階に弁護士事務所はあった。  狭苦しい階段を上り、ノックすると、「どうぞ」と乾いた声が聞こえた。  丸い銅製のドアノブを引き、中に入ると、カビの臭いが鼻につく。  黄ばんだ書物にはばまれ、人は見えない。奥に進むと、窓際の机で小柄な老人が背中を丸め、大学ノートに2Bの鉛筆で何やら書き込んでいる。  百瀬は大きい声で言った。 「稲葉《いなば》先生。わたしは昨日電話をさしあげた」 「百瀬くん? わしは耳は遠くない。普通に話しなさい」  稲葉は百瀬に隣の椅子を勧めた。ピアノ用の丸椅子だ。  窓には鏡文字で『稲 法律事務所』と書いてある。『葉』が落ちてしまっている。秘書も事務員もおらず、ひとりでやっているらしい。 「驚いたかね? 町弁はこんなもんじゃよ」 「うちも同じようなものです」  稲葉は百瀬のスーツを見て、謙遜ではないと納得した。 「弁護士会費が痛くないかい? しかし所属してないと、仕事ができんしなあ」 「たしかに高いです。一律ではなく、収入に応じて決めてくれると助かるのですが」 「そうかい? 君のプライドに響かないかい?」 「わたしは気にしません」  稲葉弁護士は視線を落とし、にやりとした。 「そのスイカ。熟《う》れ過ぎてると思うぞ」 「え?」 「賞味期限ぎりぎりになると、押し売りするからな、あの娘」  百瀬はスイカをあげてよいものかどうか迷った。 「まあ、そうやって売れとアドバイスしたのはわしじゃから、責任とって食うか」  稲葉は立ち上がり、半歩ずつ歩きながら奥に引っ込むと、持ち主と同じくらい年季の入ったまな板と包丁を持ってきた。  百瀬は「わたしがやります」と言って、まな板を低い棚の上に置き、そこにスイカをのせた。  神妙《しんみょう》に「まんなか」を定めて切る。  稲葉はそんな百瀬をじっと見ている。  昨晩いきなり電話があって、田部井耕平の件を一緒に考えさせてくれと言ってきた時は、敵のまわしものかと警戒した。  が、こうして見ると、身なりからいって、要領のいい奴ではなさそうだ。あの果物屋の早苗にスイカを売りつけられるんだから、人として、かなり見どころがある。  稲葉は八十年生きてきて、要領のいい奴にはうんざりしている。依頼人だってそうだ。要領のいい奴はお断りってもんだ。  この男はそいつらとは対極《たいきょく》に見える。何しろ丸めがねだ。昔は自分もこういうめがねをかけていたが、さすがに最近では恥ずかしく、銀ぶちに替えてしまった。今もこのめがねで平気だなんて、この男はそうとうタフな奴かもしれない。  スイカは見事に同じ形状、大きさに切り分けられ、意外なことに、食べごろでうまかった。  ふたりは新聞紙を皿にして、しばらくの間、黙ってスイカを食べた。 「昔はこれでも商店街のいざこざや権利関係の仕事で忙しかったんだが」と稲葉は言い、安っぽいスチール机に片肘をついた。 「最後のほうは死後相続の手続きばっかりでな。そのうちわしを頼る人間はみんな死んじまった。そろそろ引退かなと思っとったところで、医療訴訟など頼まれた。いかにも損をしそうな気弱な奥さんでな。どこも引き受けてくれないと泣いとった。断われなかった。しかし正直なところ戦い方もようわからん。証拠保全も後手後手になってな。するとこんなものが届いた」  稲葉は分厚いB4サイズの封筒を百瀬に見せた。  宅配便で届いている。差出人は西田幾多郎《にしだいくたろう》。住所も電話番号も書いてある。 「伝票はすべてデタラメじゃよ。住所も電話番号も存在しない。しかし歴史的哲学者の名前を騙《かた》るとはな。インテリ気取りだな」 「西田幾多郎の論文は読みにくいですよね。文章はお上手ではないと思います」 「なんだと?」 「西田さんの文章は悪文だと思います」  稲葉は、ひゃひゃひゃひゃひゃと笑った。 「そうか。わしは『善の研究』を学生時代に何度も読んで、とうとう理解できなかったが、わしの頭のせいじゃなくて、あいつが悪かったんだ」 「哲学は立派ですが、もっと書きようがあったかと」 「ふむふむ」 「広く理解されたいという気持ちに欠けていたのかもしれません」 「ふむふむ」 「わかる人にわかればいいと。それは哲学者としてどうでしょう?」 「百瀬くんはユニークだな」 「中身、見てもいいですか?」 「そのために来たんじゃろう?」  百瀬は封筒から書類を出した。ぷん、と煙草の匂いがする。この匂いは……マルボロだ。  パチンコ店に住んでいた頃、沙織の仲間が吸っていた。  書類を見た。  それは田部井耕平の医療訴訟の資料で、田部井のカルテや手術記録の資料のほか、驚くべきことに、原告代理人と被告代理人のセリフが克明に書かれている。  法廷でのシナリオだ。まるで相手が言うことを知っているかのように、答弁が書かれている。  百瀬は読んだ。克明に細部を読み、最後にもう一度カルテを見た。  稲葉は言った。 「どう思う?」 「カルテによると、フェンタニル最大投与量の五倍の量を手術で使っています。完全なる麻酔医の医療ミスです」 「じゃろう? これだったらわしでも勝てそうじゃな」 「カルテが正しかったら勝てますが」 「なんだと?」 「残念ながらカルテは改《かい》ざんされています」 「改ざん? 今はほとんどが電子カルテだろう? これはカルテ開示義務による原本のコピーだ。病院に問い合わせたが、これに間違いないということだ」 「西田幾多郎はハッキングが得意のようです」  百瀬は上を見て、目をつぶった。そのまましばらく何も言わないので、稲葉は目が疲れたのだろうと思い、そっとしておいた。  やがて百瀬は目を開け、顎を引いた。 「このままだと確かに勝てます。原本を書き換えてあるので、証拠は充分です。しかしこれは不正です。裁判の日まで、まだ一週間あります。わたしにできるすべてのことをやってみます。それまでこれ、預からせてください」 「あんた、わしの代わりに原告代理人をやるっていうのか?」 「いいえ。原告代理人は稲葉先生です。わたしはこのシナリオを直します。裁判に負けるか勝つかはわかりませんが、真実に基づいたシナリオを書きます。それを読み、ご納得いただければ、それを法廷でしゃべってください」 「わしのゴーストをやるのか。報酬金は?」 「いただきません」 「あんた、田部井耕平の家族と知り合いか?」 「いいえ、存じ上げません」 「じゃあ、なぜ」 「わたしは弁護士です。あくまでもわたしの依頼人を思ってのことです」 「依頼人?」  百瀬は西田幾多郎と書かれてある伝票を見て、言った。 「透明人間と名乗る依頼人です」  稲葉はひゃひゃひゃひゃひゃと笑った。 「あんた、自分が言ってること、わかってるか? 西田幾多郎以上に難解だぞ」 「ごめんなさい」 「面白い奴だ。気に入った!」  稲葉は封筒を百瀬に渡した。 「わしは発声練習をしておこう。引退する俳優に歴史的名ゼリフを用意してくれ。いいか? 承諾したわけではない。シナリオを読み、納得したらそれに従う。納得できなかったら、白紙だ。いいな?」 「ありがとうございます」  帰る前、百瀬はまな板と包丁を洗い、スイカの皮と種と新聞紙を片付けた。残りのスイカはラップで包み、小型の冷蔵庫にしまった。自分が持っている冷蔵庫と同じ型で、スイカでいっぱいになってしまった。  百瀬は学んだ。  手みやげは包丁を使わないものがいい。量もほどほどが肝心だ。      ○  七重は十五インチのテレビを見ている。  小さなモニターの向こうでは山田サトシが人形を抱えてしゃべっている。 「杉山くん、明日の降水確率を教えてくれるかな」 「ハイ、アスノトウキョウチホウノコウスイカクリツハニジッパーセントデス」 「なるほど、なるほど。二〇パーセントなんですね」  山田サトシは忙しそうにひとりでしゃべる。タイハクオウムを手放したあと、腹話術を会得、今や腹話術気象予報士として、ひっぱりだこである。 「いったい二〇パーセントという数字はどうとらえればいいんですか? 傘が必要なんですか? 要らないんですか?」  七重は昔から確率というものが腑に落ちない。 「たとえば大学合格率。あれは模試で判定が出ますがね。受かるか落ちるか、ふたつにひとつでしょう? そういうの、五分五分と言うんじゃないですか? うちの長男は模試で合格率八〇パーセントと出たのに現実には落ちました。次男は五パーセントでしたが現実には受かりましたよ」  野呂は確率について七重と議論したくない。七重のように基本的教養がない人間に、どこからどう説明したらよいか見当もつかない。もし説明するとして、果たして自分に明確な答えがあるのか。七重と会話をすると、足元をすくわれることがたびたびあって、怖いのだ。  百瀬がいたら独特の解釈を披露してくれるが、このところ外を走り回っている。怪我は治ったが忙しく、婚約者とも会っていないようだ。 「わたしはなぜこの気象予報士が杉山という名にこだわるのか、そちらのほうが知りたいです」と野呂は言う。  七重は「語呂がいいんじゃないですか」とにべもない。 「愛妻の旧姓でしょうか。プロデューサーの名前でしょうか」 「野呂さんは何パーセントから傘を持って行きます?」 「初恋の人でしょうか。自分を振った憎い女かもしれません」 「わたしは四〇パーセントが一番迷いますね」  ふたりはかみ合わない会話を続けた。つまり、それぞれにひとりごとを言っていた。  呼び鈴が鳴る。  七重が開けると、宅配業者の作業服を着た男が頭を下げた。背後に大型トラックが見える。 「不良品の回収に参りました」 「不良品?」 「こちらキャットタワーを十台ご購入されました百瀬法律事務所さんですよね」 「ええ」 「組み立てても完成図通りにならないと多くのお客様から苦情があり、調べたところ、商品に欠陥がありました。全額返金しますので、領収書にサインをお願いします」  野呂は十七万三百十五円を受け取り、領収書にサインをした。  その間に作業服の男が三人事務所に入ってきて、あっという間に段ボール箱九個を運び去った。猫たちは本棚の裏やキッチンに身を隠している。  組み立ててしまった一本のタワーを見上げ、宅配業者は言った。 「回収しますか? 使っていただいても危険ではありませんが、どうしますか」  野呂が答える前に七重が言った。 「杉山が気に入ってますので」  宅配業者は妙な客に慣れているのだろう、「はいそうですか」と出て行った。  百瀬法律事務所は久々に明るさを取り戻した。  窓が本来の存在意義を取り戻したのだ。  百瀬のデスク、これは廃校になった小学校からもらい受けた校長先生の机なのだが、その下から牛柄猫のモーツァルトがはい出してきて、まぶしそうに目をしばしばさせた。  七重は遠い記憶をたぐるように言った。 「そう言えば何日か前、百瀬先生が、不良品回収の電話があったとか言ってました。聞き流してましたが、キャットタワーのことだったんですね」 「伝達事項はきちんとお願いしますよ」  野呂は文句を言おうとして、そこでやめておいた。罪悪感があったからだ。  七重がタワーの組み立てに失敗し、「不良品だ」とわめいたとき、さんざん笑いものにし。「女は論理性に欠ける」などと言ってしまった。 「すっきりとして、気持ちいいですね」  七重は深呼吸などしてえらくご機嫌だ。  忘れっぽいから失敗が多いけど、忘れっぽいからケンカも起こらない。忘れっぽさは欠点でも美徳でもある。損益分岐点はどこにあるのだろうかと野呂は考える。  七重は「お茶でもいれましょう」と妙に優しい。  野呂はほっとしてデスクで仕事を再開した。  しばらくして七重は野呂の目の前に湯呑みを置いた。  野呂は茶をひとくち飲み、いつも通りまずいと思ったが、口に出さなかった。  七重は「論理性 欠けた女の 茶を飲みて」とつぶやき、にやりと笑った。      ○  下町の商店街の朝。  時計修理店の二階から、稲葉は手すりにつかまりながらゆっくりと降りてくる。  地上にたどりつくと、重たそうな鞄を降ろし、深呼吸をした。息を整えたのち、鞄を抱え、杖《つえ》をつき、アーケード内の道をゆっくりと歩き始める。  向かいの果物屋の娘が声をかけた。娘と言っても五十を過ぎている。早苗だ。 「稲葉のおじちゃん、今日はどこへ?」  稲葉はぎこちなく振り返ると、言った。 「引退の花道を歩いておる」 「あらまあ」  早苗は心の中で「まだ引退してなかったんだ」とつぶやく。  稲葉は再び歩き始める。足元がおぼつかない。 「おじちゃん、うちの車で送ってあげる。待ってて」  早苗は十年前に父親が亡くなり、相続手続きで稲葉に世話になった。  なんとか果物屋を残せたのも、稲葉のおかげだ。子どもの頃は怖いおじさんというイメージだったが、今では家族のような気持ちで稲葉の老後を見守っている。  早苗は『さいわいフルーツ』と書かれた一トントラックの助手席に稲葉を押し込み、自分も乗り込むと、エンジンをかける。 「行き先は?」 「東京地方裁判所」 「え?」 「霞が関だ」 「まさか、法廷?」 「うむ」  早苗は感心したように「何年ぶりよ」とつぶやき、アクセルを踏んだ。 『さいわいフルーツ』は制限速度を行儀よく守りながら首都高を走る。  ハンドルを握りながら早苗は「勝てそう?」と聞く。  稲葉はのど飴を口に含んで言った。 「もじゃもじゃのシナリオはセリフが長過ぎる。肺が持つかな」 「もじゃもじゃ?」 「妙な髪をしておった」  一方、二見は東京地方裁判所の第二法廷控え室で、鏡を見ながら入念に髪を整えている。  法廷を終えたら、取材を受ける。それが終わったらウエルカムへ直行だ。  ドアをノックする音が聞こえ、佐々木桜子が顔を覗かせた。 「先生、お時間です」      ○  おにぎり三個とカップラーメンをカゴに入れた。  ミルク入り缶珈琲も買おう。冷たいのかあたたかいのかで迷い、沢村はあたたかいほうにした。  今夜は上機嫌だ。  何かもう少し買い足したいが、何を買えばよいかわからない。上機嫌に慣れてない。  カゴをレジに置くと、店員はいつものようにマルボロ二カートンを加え、レジを打った。  明るい店内から外へ出ると、暗闇からこもったような声が聞こえた。 「ナンヤオマエラ、オエオエ」  目をこらすと、闇の中、妙な風体の男が立っている。  くせの強い髪がくねくねと頭を覆い、過去から持ってきたような丸めがねをかけている。痩せた体に安っぽいスーツを身に着け、襟にはバッジが光っている。  靴だけは上等だ。足元に大きな籐製のバスケットが置いてあり、その中から「オエオエ」とこもった声が聞こえてくる。  男は言った。 「西田幾多郎さんですね?」  沢村は無視して通り過ぎようとした。 「稲葉先生に送った封筒はあなたがこのコンビニから送りましたよね?」  沢村は振り返らずに歩いて行く。 「わたしは百瀬太郎と申します」  沢村は背中を見せ、早足で歩く。  百瀬はバスケットを持ち、あとを追う。  やがて公園にたどりつくと、沢村は立ち止まり、振り返った。  百瀬は追いつき、バスケットをそっと下に置くと、息を整えて言った。 「二日続けてあそこに立っていました。マルボロを買う客はあなたが初めてです。伝票から店は割り出せたのですが、あとはマルボロだけが頼りで」  沢村の胸はどきどきどきと鼓動し、立っているのがやっとだ。 「あなたは西田幾多郎さん、そして透明人間さんですね? 杉山の少額訴訟の訴状を書いたのは二見先生ではなく、あなたでしょう? 書いてしまってから、杉山の行く末が心配になった。でもほら、大丈夫です」  百瀬はバスケットの蓋をぽんぽんと軽く叩いた。 「オレハ死ナン、ゼッタイ死ナンデ、オエオエ」 「ね? 杉山はこのように元気です」  沢村は何も言わない。 「そしてあなたはカルテを改ざんしましたね?」  沢村はハッとしてレジ袋を落とした。マルボロの赤い箱が半分顔を出す。  百瀬はさらに言った。 「改ざんカルテは破棄し、元のデータに戻しておきました」 「うそだ」沢村はうろたえた。しぼり出すような声だ。 「うそではありません。公文書偽造は犯罪ですよ。依頼人がそんなことをするのをわたしは見逃せません」 「依頼人?」沢村はけげんな顔をした。 「杉山のことをわたしに依頼したでしょう? 透明人間さん。あなたはわたしの依頼人です」  沢村はしばらく黙っていたが、やがて低い声で言った。 「正義の邪魔をした」 「フェンタニル五倍量を投与したとなっては、麻酔医はどうなります?」 「知り合いか」 「田部井さんも麻酔医も存じ上げません。わたしが関わっているのは透明人間さん、あなたです。事実を曲げるのは賛成できません。法律を犯しての正義などありません」  沢村は再び黙った。しばらく沈黙の時が続いた。やがてゆっくりと足元の袋を拾い、小さいがはっきりとした声で言った。 「うちに上がりませんか? すぐそこなんです」  まるでセリフをしゃべるように、なめらかな口調で言えた。  百瀬はうれしそうに言った。 「はい、おじゃまします」  エレベーターで上に上がりながら、沢村は自分の中に何か得体の知れないものが生まれるのを感じた。それは怒りであり、あきらめであり、不思議と希望のようなものすら混じった思いだ。  エレベーターは五階に着いた。  百瀬は素直に後ろからついてくる。杉山も移動中は不安なのか、やけにおとなしい。  狭い廊下を歩きながら、沢村はすずの手の感触を思い出す。ぺたぺたとして、小さな指。いたいけな顔。  絶対、助ける。  まずは控訴だ。不変期間は二週間。新たな医療ミスを捏造《ねつぞう》して、一週間でかたをつける。こいつさえいなければ、絶対うまくやれる。  今夜は部屋に他人を入れるのに、躊躇はない。殺人にはもってこいの密室だ。  中へ入った。百瀬を背中に感じる。  リビングに着くと、百瀬は床にバスケットを置き、言った。 「部屋に放していいですか? ずっと狭いかごの中だったので」  沢村は「どうぞ」と言い、珈琲をいれる準備をする。  百瀬はバスケットを開けた。杉山は一瞬きょとんとしたが、すぐに飛び出し、ソファの背に飛び乗った。 「夜だから、しずかにね」  百瀬が杉山に話しかけているのを横目で見ながら、沢村は玄関脇の小部屋へ行く隙を狙っている。あそこに薬品がある。 「迷路ですか」  百瀬は興味深そうにスケッチブックを手に取った。  チャンスだ。 「好きですか? 迷路」 「ええ、わたしも昔よく作りました」 「それ一応完成してるんで、解いていいですよ」  沢村は赤いボールペンを渡した。  百瀬は素直にソファに座り、迷路を解き始めた。  沢村は珈琲メーカーのスイッチをオンにすると、玄関脇の小部屋へ行き、引き出しをいくつか開け、薬を選ぶ。  リビングへ戻ると、百瀬が立って杉山と会話している。 「アダチ、アダチ」 「きよた、きよた」  沢村は言った。 「もうギブアップですか」  百瀬は「いいえ、解けました」と言う。  沢村は驚いてスケッチブックを見た。  赤い線は迷うことなく一本で、くねくねと器用に迷路を抜け、外へ出ていた。  この迷路に一ヵ月かかった。解くのに五分?  さすがに世田谷猫屋敷事件の百瀬太郎だ。馬鹿じゃない。  珈琲ができあがるまでの間、話をしてみようと沢村は思った。  長年しゃべれなかったのに、百瀬に対しては言葉がするすると出てくる。さっきからそれが不思議でならない。  なぜだろう? 怒りからか? 「百瀬先生にとって、法律は宗教ですか?」と言ってみる。 「いいえ、わたしは無宗教です。法律は完全ではないことを知っています。人類は学び、法律を完全な形へ近づけようとしていますが、永久に完全にはならないでしょう」 「でも、守る?」 「はい。よりどころとしています」 「たとえば、おふくろさんが人を殺した、かくまってくれと言ったら、警察に突き出す?」  百瀬はしばらく天井を見ていたが、「自首を勧めます」と言った。 「母親を法律という武器で守ってやらない?」 「法律は武器ではありません」 「母親を拘置所に送るのか?」 「はい」百瀬は即答した。  なるほど法律ロボットか。だから平気でこの計画をつぶしたんだ。  沢村は吐き捨てるように言った。 「悲しい人だね」  百瀬は胸に痛みを感じた。そうかもしれないと思ったからだ。  沢村は白いカップに珈琲を注ぎ、ソファの前の低いテーブルに置いた。  心の中で「さよなら、百瀬」と言った。  百瀬はソファに座り、珈琲カップを手に取ろうとした。  するといきなり、呼び鈴が連打された。  ビンポンピンポンピンポンピンポンピンポン!  沢村は走って行き、玄関を開けた。すると二見が青い顔をして入ってきた。 「うらぎったな!」  二見は沢村のむなぐらをつかみ、ゆさぶった。そして低い声で言った。 「お前、稲葉のシナリオを書いただろう」  二見は沢村を壁に押し付けた。 「俺を馬鹿にするなよ! さすがに気付くぜ。あのじじい、こっちのセリフを全部わかってた。余裕かまして、笑ってやがった」  沢村は当惑した。なぜ二見が怒っているのかわからない。  百瀬が元に戻したデータで、二見は逃げ切れるはずだ。 「よう、劇作家。なんで法廷に来なかった? 見事な舞台劇が見られたぜ。ふたりの弁護士がお前の書いたセリフを延々読まされたんだからな!」  二見はドン、ドンと沢村を壁に押し付けた。  沢村は痛みに耐えかね、「う」と声を出した。  すると二見は手を離し、沢村を指差して叫んだ。 「俺はライトを浴びながらいつも思ってた。お前はゴーストなんかじゃない。ゴーストは、この俺だ! 俺がお前の影だったんだよ!」  それまで無表情だった沢村は急に気弱な顔になり、床に目を落とした。  長い沈黙が続き、やがて沢村がぼそりとつぶやいた。 「死なないよね?」  さらにしぼり出すような声で「ごめん」と言って、ひざまずいた。  沢村の顔から血の気が引き、手はふるえている。  二見は「透明?」と問いかけるが、沢村はうずくまったまま何も言えない。  突然、叫んだ。 「オレニモンクアルンカオマエラ!」  二見は驚いて声のする方を見た。 「山田サトシのオウムが、なんでここにいる?」  次に二見は百瀬に気付く。 「あんた誰だ?」とびっくりしている。 「百瀬と申します。あの」  二見は「新しい相棒か」と言い捨て、逃げるように出て行った。  百瀬はグラスに水をくみ、床にぺたりと座っている沢村に渡した。  沢村はそれを頭からかぶって、言った。 「カルテを元に戻したというのはうそか」  百瀬は「うそではありません」と言い、ソファに座った。 「データをきちんと元に戻しました」 「じゃあ、なぜ」 「真実を追求する中で、救いがないか、考えてみたんです」  沢村は片膝を立て、興味深そうに百瀬を見る。 「透明人間さん、あなたはご存知でしょう、正しいカルテでは、医療ミスと言えるほどの落ち度はありません。そこで考えたんです。やはりミスはあった。通常ならば問題にならない程度のミスであり、カルテに記載されていない。ミスした本人も、自覚がないかもしれない。しかしそのミスは、患者の個体差によって最悪の事態を引き起こす、という設定で、可能性がないか調べてみたのです。大学時代の恩師のひとりに脳外科医がいるので聞いてみました。わたしは法学部だったのですが、医学部に何度か出入りしたことがあるのです。彼に聞いたところ、いくつかあるパターンの中から、浮かび上がったのは、輸血パックをつなぎ替える時のミスで、空気が体の中に入ってしまうケースです」 「それでは意識障害にはならない」 「ええ、よくご存知ですね。点滴に空気が入ることなどは実際にたびたびあります。一回に二十ミリリットル以上入らなければ体に影響はありません。ですが、心臓に卵円孔開存《らんえんこうかいぞん》、つまり心房中隔欠損症《しんぼうちゅうかくけっそんしょう》の人ならば、少量の空気でも脳梗塞を起こす場合があるのです」 「心房中隔欠損症?」 「ええ。この奇形は生まれつきのものですが、穴が小さい場合、問題にならないため、あっても気付かれずにおとなになる場合があります。現在田部井さんが入院している病院でX線検査をしたところ、田部井さんの心臓にはこの欠損が見つかりました。そして脳梗塞のあとも小さいながら見つかりました。輸血パックをつなぎ替えるミスはカルテでは実証できませんが、状況証拠として有力です。刑事責任は問えませんが、今回の民事裁判では病院側に過失があったとされ、賠償を命じる判決が出ました。原告が請求する賠償額は適当ですし、病院側は控訴をしないそうです」  沢村は驚き。あらためて百瀬を見た。  丸めがねの奥の目は充血し、目の下にはくっきりとしたクマがある。これだけのことを調べ、シナリオを書き、さらには二夜連続、あのコンビニの前で突っ立っていたのだ。疲労はいかばかりかと思う。  いったいなんのためにこの男はそうした? そしてここにいる?  沢村は言った。 「あの母親と子どもは助かるのか」 「ほんとうの救いは田部井耕平さんが目覚めることですが、それまでの時期を少しは楽に過ごせるようになるでしょう」  ここまで話すと百瀬はのどがかわき、珈琲カップに手を出した。  沢村はとっさにカップを奪い、床に珈琲がこぼれた。  百瀬は沢村を見た。小刻みに震えている。  百瀬はティッシュを大量に使い、床を丁寧に拭いた。  杉山は毒づきもせず、おとなしく男ふたりを見守っている。  百瀬はティッシュをゴミ箱に捨てると、カップを丁寧に洗った。珈琲メーカーに残っている珈琲も捨て、これも洗った。  最後に手もしっかりと洗う。  手の甲の「トウメイ」という文字はすでにかすれており、今すっかり消えた。  流しの横に真新しいクレヨンがある。  百瀬はそれを見ながらハンカチで手を拭いた。そして、そっと左胸に手を当てる。シャツのポケットにあの人がいる。もう少しで会えなくなるところだった。  沢村は百瀬の背中に向かって言った。 「あんたさっき、俺の言葉に、傷ついた?」  ソファに戻ると、百瀬は沢村を見て言った。 「たしかに傷つきました。あなたの言う悲しい人というのは、ある意味当たっているからです。これから時間をかけて自分の弱点を克服していこうと思います」  沢村はくいいるように百瀬を見ている。 「二見さんは、あなたの能力にコンプレックスを持っているようですが、それも二見さんが自分で乗り越えるしかありません」  言いながら、百瀬は寺本を思った。 「生きていれば、誰かを傷つけます。辛いことですが、完全には避けられません。誰も傷つけたくなくて、じっと息をひそめていても、そのことで、傷つく人もいるでしょう」  沢村は母を思った。  百瀬は「ここからが本論です」と言った。 「杉山の里親を引き受けてください。あなたが彼の命を救ったのです。その命を背負ってくれませんか。一時預かりでもかまいません。やはりだめだとなったら、メールをください。絶対に無理はしないで。すぐに引き取りにまいります」  百瀬はスケッチブックを手に取って言った。 「この迷路、今まで解いた中で一番時間がかかりました。たいへん面白かったです。今度来た時に新作を見せてください」  沢村はどう答えていいのかわからない。  百瀬は勝手に「ありがとう」と言って、出て行った。  ドアがカチリと閉まったあとも、沢村は玄関を見つめていた。  意識がぼんやりとして、何も考えられない。良いことがあったのか、悪いことがあったのかすら、わからない。  あの母と子は、どうなったんだっけ。  二見はどうするんだっけ。  自分はこれからどうしたら良いのだろう?  するとこもった声が聞こえた。 「トウ、メイ、トウ、メイ」  振り返り、杉山を見た。  杉山は目をそらし、きょときょとしている。  ひとつわかった。  妙なものを背負い込んだのは確かだ。  沢村は急におかしくなり、大声で笑い出した。  何年ぶりだろう? 腹の底から笑うのは。  笑い過ぎて、腹が痛くなった。    第五章 最初のひまわり  青山一丁目の二見法律事務所は閑古鳥《かんこどり》が鳴いている。  ハイセンスな応接室には、段ボールがところ狭しと置かれ、ひと箱は満杯だが、そのほかはスカスカだ。  秘書の佐々木桜子はスレンダーな足で段ボールを端に寄せた。 「余ってますね」  二見はビールを飲みながら「法律事務所と言ったから、引越屋はさぞかし書籍であふれてると思いやがったんだろう。俺さまは全部記憶してるから、本なんざ要らねーんだ」と言い、飲み切った缶を段ボールに放り込んだ。  佐々木は二見を睨む。  睨まれた二見は佐々木の角張った黒ぶちのめがねを見て、沢村の部屋にいた妙な男を思い出す。あいつは誰だ? まあ、いい。もう俺と沢村は関係ないんだ。 「二見先生、ほんとうにここを閉じるんですか?」  佐々木は六法全書と訴訟のファイルが詰まった段ボールに腰掛けると、封筒を差し出した。そこには『退職金願』と書いてある。 「金が余計だ」 「払えないなら。わたしはやめません」 「あのなあ」  佐々木は封筒を雑巾《ぞうきん》のようにぎゅっと絞った。 「わたしこれでも法学部出身なんです。ゴーストくらいできますよ」  二見はハッとして佐々木を見た。  佐々木はめがねをはずした。くっきりとした二重のすごい美人である。色っぽさが七割増した。 「ここでお茶をこぼした子。先生のゴーストですよね。彼は天才なんですか?」 「君、いつからそれを?」 「女は勘がするどいんです」  佐々木は足を組んだ。色っぽさが頂点に達した。 「大学のゼミの教授が、よく話してました。学生時代、超一級の頭脳を持った友人がいたんですって。妙な黒ぶちめがねをかけた男だそうです。もし彼が十九世紀に生まれていたら、アインシュタインの名は後世に残らなかっただろうって教授は言うんです。信じられますか? アインシュタイン越えの脳ですよ。  教授が言うには、大学が彼のIQを測ったところ、医学部から転部してくれとスカウトが来たそうです。ゆくゆくはノーベル賞を取らせたい。そんな思惑が大学にはあったようです。東大ですよ、東大。わたしは二度受けて二度落とされました。その男にあやかりたいと思いまして、以来、めがねを黒ぶちにしています。  ところが彼、おかあさんに会いたいとかなんとか、赤ん坊のようなだだをこねて、医学部転部を断ったんですって。おかあさんですよ? そんなマザコン男なのに、最年少で司法試験に受かるし、ウエルカムに入ったはいいけど、合わなくてやめたそうです。合わなくて、やめたんですよ。その後は町弁で、細々やっているみたい。  いいですか? わたしが言いたいのは、天才的頭脳など人間には不要なんです。社会は多数派に都合がいいようにできているんです。多数派とはつまり、凡庸です。凡庸な頭に貪欲さがあれば、必ずいい夢見られます。事務所、続けましょう。わたしが今日から先生のゴーストになります。一応、先生は司法試験に受かっていますし、わたしも一応、法学部卒ですし、ふたりとも美貌があるので、なんとかなりますよ」  二見は黙ったまま、佐々木の足首を見ていた。黒いパンツスーツの裾とパンプスのわずかなスペースに見える白い肌が妙になまめかしい。沢村の頭脳よりよほど魅力的な肌とも言える。 「こっちが細々やってれば、あのぼうやも、いつか戻ってくるでしょう」  佐々木はめがねをかけた。色っぽさは七割減だ。  二見は沢村を思った。  医療ミスの一件は理解できないが、ひとつだけわかったことがある。  奴はタイハクオウムが欲しかったんだ。それを言い出せなかったんだな。  今はタイハクオウムと暮らせて満足しているはずだ。じき機嫌も直るだろう。  さて自分はあいつが戻ってくるまで食いつなげるだろうか。ボクスターを質屋に入れて、あいつが戻ってきたら、受け戻せばいいか。質屋は外車を扱うかな?  二見はここまで考えると、いきなり佐々木に近づき、両手でウェストをつかんだ。  佐々木は驚いて立ち上がった。  二見は「五十八センチ」と言った。そして佐々木が座っていた段ボールから六法全書を取り出すと、書斎へ運んだ。  佐々木はにやりと笑い、キャンセルの電話を運送店にかけた。      ○  夜の公園はそろそろ肌寒くなってきた。  街灯は眠るのをやめ、すみずみまでぴしっと砂場を照らしている。  ひまわりが枯れたので、今度は自分の出番だと、やる気を出したのだろう。  沢村はブランコに腰を降ろした。痩せた体は簡単にはまったが、長い足が余ってしまう。地面に膝がついて、うまくこげない。  昔は乗った。記憶がある。ブランコに乗ると、風を感じた。  すべり台を見る。あそこで風に乗ろうとした女の子がいたっけ。  すると闇の中からふいに女が現れ、「こんばんは」と言った。  身構えると、田部井陽子だ。  今夜はひとりだ。いつもと感じが違う。ふわりとした真っ赤なスカートをはいている。いつもはもっとあっさりとした服だったような気がする。  すずとセットじゃないから奇妙な感じだが、たぶん、田部井陽子に違いない。断りもせずに、隣のブランコに腰を降ろした。  いつもすずといたから気付かなかったが、ずいぶんと体が小さい。こんな小さな体で寝たきりの夫と子どもを背負っているのだと思うと、沢村は胸が痛くなる。  陽子は器用にブランコをこぎ始めた。  沢村も真似をしてこいでみた。  陽子は子どものように強くこぎながら、言った。 「田舎に帰るんです。新潟に両親と兄がいて、お米を作っているんです。主人の転院先も見つかりました。じゅうぶんな治療を受けられそうなんです。すずはもう、あっちに行っています。わたしは主人の退職手続きをして、最後の整理を終えました」  沢村は何か話しかけたいと思った。クレヨンを餞別《せんべつ》に渡そうか。あれこれ言葉をみつくろっているうちに、陽子は言った。 「あなた、しゃべらないでしょう? 主人もしゃべらないでしょう? なんだか妙に安心できて、すっかりあまえちゃったわ」  沢村はハッとして、言葉を飲み込んだ。  陽子は子どものように、勢いをつけてぽーんと前へ飛ぶ。真っ赤なスカートがひらりと舞った。着地すると、振り返って言った。 「この公園に来ると、昼間の忘れ物のシャベルや、三輪車があったりするでしょう? それを見て、わたし、おいてけぼりをくったような気がしたの。しあわせのおいてけぼり」  陽子はマンションの窓を見上げた。 「窓からあかりがもれていると、あのカーテンの向こうにしあわせが詰まっている。そんなふうに思えて、うらやましかった」  沢村は立ち上がった。ひとことでいい、何か言いたいと思い、半歩近づいた。  陽子は沢村を見上げ、宣言するように言った。 「わたし、ひまわりになる」  沢村は立ち止まった。 「太陽がないのなら、太陽になってやる。あのひまわり、そんなふうに立ってた。わたしもそうなるんだ」  沢村は黙ったまま陽子を見つめた。  陽子は沢村を見て。「なんてきれいな顔なんだろう」と改めて思った。  たぶん同じ歳くらいの、美しい青年。初対面の時はひげだらけで、髪も長かったけど、最初からわかっていた。優しい人だと。すずの顔に煙草の煙がかからないよう、気を使ってくれていたもの。  少し、好きだった。けど、もうさようならだ。  陽子は笑おうとして顔がゆがみ、あわてて走り去った。  沢村は顎に手をやった。無精髭《ぶしょうひげ》がちくちくする。剃っておけばよかったと後悔した。      ○  大福亜子は羊羹《ようかん》にナイフを入れた。  自宅のキッチンは、キッチンというより昭和の台所という風情で、勝手口に狭いながらも土間がある。母の敏恵《としえ》は亜子の横で神妙に日本茶をいれている。  自分がいれたお茶の香りに満足した敏恵は、娘の手元を見た。 「あらあら、もっとすーっと切らなきゃ」  敏恵は亜子が切った羊羹をつまんで口にくわえ、ナイフを奪うと、神妙に切り始めた。  専業主婦で、キッチンは女の城と思っている敏恵は、いつもこうやってすべてを自分でやってしまい、おかげで娘の亜子はちっとも家事が上達しない。 「良さそうな人じゃないの」  敏恵は菓子折りをちらりと見て言った。  人形焼十二個入りだ。 「おかあさん好きよ、こういう手みやげ」 「人形焼が?」 「切ったり洗ったりせずに出せるし、かぶる可能性は少ないし、愛嬌があって、かわいらしいじゃない。きっと数だって一生懸命考えたと思うわ。考えた末の十二個なのよ。それにめがねがいいわ。絶対浮気はしないタイプだわよ。男はね、モテないほうがいいの。モテていいことなんて、ひとっつもないんだから」  敏恵は自分に言い聞かせるように力説した。 「おかあさん、ありがとう。百瀬さんを気に入ってくれて」 「そりゃあ気に入るわよ。あなたを愛してくれている人だもの」  亜子は少し頭を傾けて、それから正直に言った。 「百瀬さんは好き嫌いをなさらない人なの。あの人は誰と結婚したってきっと相手をだいじにするわ」 「え?」 「でも心配しないで。わたしは百瀬さんを愛してるの。だからすべてうまくいくと思ってる」  敏恵はめんくらった。  好き嫌いをしない? 結婚に? どういうこと?  しかし娘が「うまくいく」と言うなら、「うまくいく」に違いない。娘が選んだ道を応援するのが母の道だと思う。障害は居間に控えている。あれだけで充分だ。よし、もうひとこと、エールを送ろう。 「身寄りがないってところがさっぱりしてていいじゃない。めんどくさいのよ、親戚付き合いって。亜子はラッキーね、嫁姑問題、ないんだから」  亜子はそうは思っていない。いつか嫁姑バトルができたらいいなと思う。  とにかく亜子は第二関門を突破した気分だ。  第一関門は百瀬の反応だった。  春美が「父と会ってくださいと言って、はいとのこのこ家に来れば、彼、本気ですよ」と言うので、「仕事が一段落しました」と百瀬から電話があった時、おそるおそる「うちに遊びに来ませんか」と言ってみた。  すると百瀬は即答した。 「ご両親にご挨拶しなくてはいけませんね」  亜子は心からほっとした。  百瀬の気持ちを試せれば満足だったのだが、本当に来てしまい、うれしい反面、これから起こる騒動が心配でならない。  第三関門は別名|鬼門《きもん》とも言う。  床の間に掛け軸がある。梅園家の掛け軸と違い、達筆だ。 『正直』と書いてある。梅園家の『かんと』と違い、ひじょうにわかりやすい。  が、その前に座っている男は、何を考えているのかわからない。  顔は『巨人の星』の星飛雄馬《ほしひゅうま》の親友・伴宙太《ばんちゅうた》の父、伴自動車工業社長・伴|大造《だいぞう》に似ている。そう言ってわかるのはよほどオタクだが、しもぶくれの顔、八の宇のひげがそっくりだ。  大福|徹二《てつじ》、五十九歳。定年間近の公立小学校の校長である。八畳の和室の上座で腕組みをしている。  百瀬は下座で正座をしている。髪はシャンプーしてあるし、顔はしっかり洗って怪我のあともなく、百瀬にしては身ぎれいなほうである。  しかしちょっと落ち着かないのはネクタイの色だ。  婚約者の家に挨拶に行くと言ったら、七重がはりきってデパートへ行き、買ってきてくれたのだが、正義と自由の色なのだ。つまり、黄色だ。  百瀬はこんな派手な色のネクタイをしたことがない。  正直、黄色はドアだけで充分だと思っている。しかし「絶対これがいい」と七重が力説するので、しないわけにはいかなかった。  それに、七重の言う事はときたま[#「ときたま」に傍点]当たる。七重の指でぎゅっとしめられた瞬間、「いけるかも」という気にもなった。  七重は「おじょうさんをください」をきちんと言えと何度も念を押した。ネクタイは受け入れたが、それにはうんと言えなかった。 「大福亜子さんはひとりの人間です。もらうとかあげるとか、品物のような言い方はできません。大福さんはわたしと結婚しても、大福家の娘さんであることには変わりありません」  七重は笑った。 「そんなんじゃ結婚なんてできませんよ。ただの決まり文句[#「決まり文句」に傍点]なんですから、それくらいさらっと言えないといけません。男女は理屈じゃないんです。いいですか? おじょうさんをください」 「おじょ……おじょ……」 「まったくもう! 杉山よりのみ込みが悪いんだから」  野呂はというと、さすがに何も言わない。経験がないので、さしはさむ言葉もない。ただ、「うまくやれ」と目で合図を送り、百瀬はうなずいた。  そうして今、大福家の居間にしゃっちょこばっているという状況だ。  さきほど母親の敏恵がお茶を持ってきてくれた。日本の母という感じの、おだやかな女性で、ひとくち飲んだお茶は超一級の味だった。  亜子と結婚したらこんなうまいお茶が毎日飲めるのか。夢のようだ。  百瀬は女というものを知らないので、母と娘は能力が相似すると思い込んでいる。  一方、大福徹二は、相手を観察しながら、出方を待っている。  見たところ、百瀬という男は、ものごしが柔らかで、謙虚そうである。ま、そこはいい。  しかし髪は傍若無人《ぼうじゃくぶじん》だ。好きな女の親に会うのに、ポマードもつけずにぼさぼさのままでいいのか? 徹二は「ポマードは男の身だしなみ」と信じて生きている。  さて、めがねは奇妙だが、ま、いい。「ものを大切にしましょう」と月曜の朝礼で子どもたちに言い聞かせている。このめがねはそれを実行したものだけが持てる逸品だ。  服は安物だが紺色で、これもまあ、礼儀に適っている。  問題はネクタイだ。さっきからどうも首からたくあんをぶらさげているように見え、めざわりだ。  百瀬が何かを言おうとしたので、徹二は「いよいよきたか」と身構えた。  百瀬はかしこまって言った。 「タマオがこちらでお世話になりました。最期を看取っていただいたようで、ありがとうございました」  徹二はあてがはずれ、皮肉のひとつも言いたくなった。 「わたしは町会長として、猫屋敷撤廃運動の指揮を取っていた」 「え?」 「あんたとは敵対関係にあったと言っていい」 「そう……でしたか」 「が、まあ、猫に罪はない。わたしは猫が大嫌いだが、娘が引き取ったものは、無下にもできまい」  そのあと、お前のことは引き取りかねるという言葉を飲み込み、いったん茶を飲んだ。  それからゆっくりと、懐の深さを見せつけるべくして、こう言った。 「タマオは最期まで立派だった。ひじょうに男らしかった」  ところが百瀬は意外なことを言った。 「タマオはめすなんです」 「めす?」 「ええ、先日夢で会いましたが、自分でも男だと思っているようで、男言葉を使っていました」  なんだこいつ? 徹二は混乱した。  相手のペースにまき込まれないよう、あらかじめ用意した質問をぶつけた。 「父君も弁護士なんですか?」 「いいえ、違います。あ、ひょっとするとそうかもしれません。可能性はゼロではありません。いや、違うかな」 「はっきり言いたまえ」 「生物学上いるのは確かですが、戸籍に父はおりません」 「では君は母子家庭で育ったのか」 「はい。いえその、母子家庭だったのは七歳までで」 「母君は再婚したのか」 「いいえ、違います。あ、ひょっとするとそうかもしれません。可能性はゼロではありません。いや、違うかな」  徹二は馬鹿にされていると感じた。東大卒と聞いている。わけのわからぬ理屈でこちらをやり込めようとしているに違いない。  徹二は形勢が不利なときは「大声を出す」と決めている。 「なんだ君は! さっきからのらくらと嘘つきおって! ふざけるのもいいかげんにしろ!」  ところが敵はちっともこたえていないようで、ひょうひょうと切り返す。 「嘘はついていません。正直に申し上げております。母とは七歳まで一緒に暮らしていましたが、その後は施設で育ったもので」 「なんだ、君の母親は子どもを捨てる女なのかっ!」  そのとき、亜子が羊羹と人形焼を盆に載せて入ってきた。 「おとうさん、違うのよ。百瀬さんのおかあさまは息子のしあわせを考え、それが一番良いと思ってそうなさったんです」 「何が息子のしあわせだ。子どもを捨てる母親は最低だ」  亜子は盆を置くと、父親を見下ろして言った。 「おかあさまを悪く言ったら承知しないから」 「お前、こいつの母親に会ったことあるのか?」 「会わないでもわかります。おかあさまは百瀬さんを愛していたんですから」 「会ってもいないのになぜわかる」 「このめがね! めがねをくれたんです。父親の形見の大切なめがねを息子に託したんです」  亜子はむきになって、百瀬の顔から丸めがねをはずし、父の目の前に突き出した。  乱暴に扱ったのがいけなかった。ちょうつがいのビスが抜け、ぶらぶらになってしまった。それに気付いたのは百瀬だけで、亜子と徹二は激しく口論している。  百瀬は亜子の手からそっとめがねを抜き取り、ためいきをついた。  また修理に出すと金がかかる。ビスはないかと探したが、見当たらない。  見当たるわけがない。強度の近視なのだ。めがねを虫めがねのように顔に当て、眉根を寄せ、必死に探っていると、机の上に羊羹を見つけた。  添えてある爪楊枝《つまようじ》をビス代わりに刺すと、うまいことはまった。  百瀬はめがねをかけ。世界を取り戻すと、もう一度ビスを探し始めた。  そのとき、「にゃ〜」とキジ猫が百瀬に近づき、膝に乗った。 「エドガー」  百瀬は抱き上げ、頬ずりをした。 「お前、ここにもらわれていたのか。毛艶が良くなったな。どうだ? お腹の調子は」  すると徹二がうわくしょい、うわくしょいとくしゃみを始め、立ち上がる。 「亜子、そいつを二階へ、二階へやってくれ」  亜子は頭に血が上っており、父親の申し出を拒否した。 「亜子、うあーっくしょん、うあーくしょん、二階へ、うあーくしょん」  どうやら徹二は猫アレルギーのようだ。それなのにタマオまで引き取って、さぞかし不愉快だったろう。百瀬は徹二を気の毒に思い、キジ猫を抱いて二階への階段を上ろうとした。  すると徹二は「ばか!」と叫んだ。 「娘の部屋に上がるな! 出て行け! あんたのようなわけのわからん奴は見たことがない! うちの娘との交際はいっさい認めん!」  暗い夜道を百瀬はうつむきかげんに歩いていた。  黄色いネクタイはまるで蛍光塗料のようにむなしく光っている。  亜子は半歩下がってついてゆく。 「ごめんなさいね。父。頑固者で」  すると百瀬は立ち止まり、振り返った。 「感動しました」  百瀬は目を輝かせて、亜子を見る。 「親ってあんなふうに子どもに一生懸命になるんですね」 「…………」 「いいおとうさんじゃないですか」  めがねの奥の百瀬の目は澄んでいる。その横に楊枝が突っ立っていようが、亜子にとって、あこがれの王子様には違いなかった。  しかしこの優しさは難物だ。百瀬があっさり引きさがってしまいそうで怖い。 「世田谷猫屋敷事件の時、先頭になって立ち退き要求してたんですよ。父が原告であなたが被告。頭の固いわからずやなんです」 「でもそのおかげで黒岩サチ江さんは結果的に」  幸せになったじゃないか。と言おうとして、百瀬は黙った。  サチ江は幸せだったのだろうか。笑い声を聞いたことがない。猫から引き離してしまったのは自分の判断である。  百瀬は目をふせ、次の言葉を見つけられずにいた。  すると亜子が歌い始めた。小さいが透き通った声だ。 「か〜ごめ。かごめ。か〜ごのな〜かのと〜り〜は」  百瀬はハッとした。  亜子は恥ずかしそうにゆっくりと歩きながら歌った。 「い〜つい〜つで〜や〜る。よ〜あ〜け〜の〜ばんに」  百瀬は鋭い声で言った。 「大福さん、会いに行ったの?」  亜子は立ち止まってうなずいた。 「いつ?」 「ずっとかな」  百瀬の脳裏に猫のぬいぐるみが浮かんだ。  最初はふぞろいで、ぎこちない縫い目だった。それがだんだんうまくなり、タマオなどは、店で売れるほどにじょうずにできていた。  看護師は言った。 「タマオ? いいえ、あーちゃん、ってサチ江さんは呼んでましたよ」  あーちゃんはぬいぐるみの名前じゃなくて、ひょっとして?  亜子はほがらかに語った。 「おばあちゃん、ころころ、よく笑うでしょう? 笑い上戸なんだもん、こっちも笑えてきて、よくふたりで笑った。帰る頃にはいつも、お腹が痛くなっちゃった。亡くなったって連絡もらったけど、お葬式には行かなかった。生きてる時いっぱい会ったから、その時のまま覚えておきたかったの。今でも聞こえてくる。おばあちゃんの笑い声。百瀬さんが見つけてくれた居場所、幸せだったみたい」  そこまで言うと、亜子はドン、と、何かにぶつかったような衝撃を感じて、息が詰まった。  気がつくと、百瀬が自分を抱きしめている。  亜子は緊張した。しばらくじっとしていると、百瀬の上着から、かすかに体臭がした。亜子はうれしかった。この人も人間なんだ。  ほんの、一分もしないうちに、百瀬は亜子から離れた。  見ると、百瀬は驚いたような顔でこちらを見ている。  蚊の鳴くような声で「ごめんなさい」と言うと、走り去った。  百瀬が走って行く後ろ姿を亜子は見えなくなるまで見つめていた。      ○  青空に紙飛行機が一機、大きくらせんを描きながら降りてくる。  武蔵野中央公園。空が広い。  紙飛行機が着陸すると、野呂はストップウォッチを押し、しかつめらしい顔をした。紙飛行機を拾って、こちらへ歩いてくる。  百瀬が野呂とプライベートを共にするのは初めてだ。  珍しく、「飛行機を見に行きませんか」と誘われて、来てみたら、紙[#「紙」に傍点]飛行機だ。折り紙式ではなく、組み立て式で、胴体と主翼と尾翼でできている。  野呂は自慢げに紙飛行機を百瀬に渡す。 「やってみませんか?」  紙にはおかしな柄がついている。 「これ、カレンダーで作ってるんですか?」 「四葉自動車工業のお得意先に配るカレンダーが紙飛行機の素材に最適なんです。マニアの間では争奪戦ですよ。あの会社、自動車のエンジンはミスりましたが、カレンダーの紙質は安定しています」  百瀬は主翼のカーブを少し加減し、右手に持つと、左斜め上方へすいっと飛ばした。  紙飛行機はまっすぐに上へ上へと飛んでゆき、やがて迷ったかのように失速した。その後はまるで空を見物するように、ゆうるりと円を描きながら、浮かぶように飛び、延々と降りてこないかに思われた。  ようやく着陸し、野呂はストップウォッチを押した。  百瀬ぼそっと拾い、野呂に紙飛行機を渡しながら言った。 「遅いですね」 「紙飛行機は速さを競うんじゃないんです。距離でもなく、滞空時間です。百瀬先生、あなた次の大会に参加しますか? 優勝できるかもしれませんよ」 「いいえ、わたしは」 「教えてください。さっきどこをどう変えたんですか」  百瀬は主翼の角度と吹いている風との関係性を説明した。  野呂はためいきをついた。 「優れた人は何をやっても優れている」  野呂は芝生に腰をおろすと、言った。 「プロッターを買い替えるつもりだったんですよ」 「プロッター?」 「カッティングプロッターです。飛行機のデザインをデータ入力すると、びしっと正しい輪郭で紙を切ってくれる優れものです。グラフテックプロの最新式。十七万します。実は、あのキャットタワーが届いた日に、買う予定だったんです。ところがいきなり段ボール箱が次々運ばれてきた」  百瀬も芝生に腰をおろした。 「段ボール箱の山を見た時、わたし思ったんです。どこかで神が、神がいるとしたらですよ、あのプロッターはやめとけ、って言ってるんじゃないかって。ちょうど十七万でしたからね。迷いもあったんで、えいっと、キャットタワーに金を払ったんです。だけどあとからやはり買っておけばよかったと、後悔しまして。朝起きると買えばよかった、夜になると買わなくてよかったと、ぐずぐず考え通しです。しかしたった今、心底買わなくてよかったと思えました」  百瀬はにこっと笑った。 「おかしいですか?」 「いいえ」 「わたしのような不器用な人間は、なんでも形から入るんです。スキーをしようとしたら、一番高い道具を揃えてしまうんです。フランス語を学ぼうとしたら、表紙が本革製の辞書を買います。自信がないから、道具に頼るんですよ。広告にあおられて、いっぱい失敗しています」  百瀬はいつか野呂が「誇大広告は詐欺罪だ」と強く主張したのを思い出した。 「先生、大会の日、つき合ってくれませんか。主翼の調整、お願いします」 「いいですよ」 「やった。これで次は優勝だ。持つべきものは天才の友ですな」  野呂はうれしそうにガッツポーズをした。  百瀬はありがたいと思った。「友」と言ってくれた。  野呂は百瀬の顔が明るくなったので、思い切って聞いてみた。 「あっちはどうなんです、結婚、順調ですか?」 「彼女の父親に、もう会わないで欲しいと言われました」  野呂は驚いて百瀬を見るが、百瀬はにこにことうれしそうだ。 「それにしてはやけにさわやかですね。いいことでもあったみたいに」  百瀬はうなずいた。 「野呂さん、わたしは初めて、この人といたい、と思ったんです。ほかの人じゃなくて。この人じゃないと嫌だ、という、一種のエゴなんですが、そういう気持ちになったんです」  野呂はほっとした。  このところぼんやりとして、天井を見ることもせずにひたすらためいきをついているので、外へ連れ出してみたが、どうやら良いほうの展開になったようだ。  野呂は自分の薬指を見て言った。 「この人だと思わないと、だめですよ。まあそれも度が過ぎると考えものですけどね」  そう言って立ち上がると、空へ向かって力いっぱい紙飛行機を飛ばした。      ○  百瀬法律事務所は杉山が去ったあと、猫の天下に戻った。  現在いるのは十匹である。先日野呂デスク守衛の黒猫ボコがもらわれていき、九匹に減ったが、今またボコが定位置に戻り、十匹で安定している。  三回も戻ってきてしまったので、里親さんはあきらめた。ほかの猫をと言ったが、「おたくの猫はもう結構」と断られた。  ボコにとっては野呂が「この人」のようである。野呂もまんざらではないようで、こっそりかつおぶしなぞあげている。  百瀬はただいま『密室猫妊娠事件』の依頼に振り回されている。  血統書付きのめす猫を飼っている女優が、スペシャルなお相手を探している最中に、なぜか妊娠発覚。女優ではなく猫がである。そこは三階建ての豪邸で、猫を室内から出したことはなく、なぜ妊娠したのかわからないと女優は言う。  誰が愛する娘をはらませた? 女優は「犯人を捜せ」といきり立っている。 「まるで探偵への依頼ですね」  野呂は面白がっているが、七重はかんかんだ。 「出産したらうちで引き取ることになる予感がするんですけど!」  百瀬はパソコンモニターを熱心に見つめたまま何も言わない。  野呂と七重が覗くと、こんなメールが届いていた。  百瀬先生へ  お元気ですか。杉山はごつう元気にしとります。昨日コンビニで、マルボロはもうええんです、と言うてしまい、大阪弁がうつったことに気付きました。杉山を扶養《ふよう》する責任が発生したよって、働くことにします。慣れんことは避けよう思て、近いものから始めてみます。試験は自信あるんやけど、学校が苦手やよって、けど、大阪弁なら通えるかもしれません。資格が取れたら、青山一丁目で働こ思てます。入れてくれたらやけど。ほかされたら、相談に乗ってください。 [#地付き]透明人間より 「悪文は直りましたが、大阪弁になっていますね」  野呂があきれると、百瀬は言った。 「最初のメールは試験だったのでしょう。読解できる人間か試していたんですよ」  言いながら百瀬はメールを打った。  杉山に会いたいこと、迷路の新作も期待していること、青山一丁目がだめだったら銀座のウエルカムを紹介すること。どこもだめだったら、うちを手伝って欲しいということ。  少し考えて、最後の一項目を削除した。  土曜の昼下がり。オフィス街の喫茶店に客は少なく、長居してもなんら問題はない。  百瀬は小さな花模様のハンカチを差し出した。 「返しそびれていました。ありがとうございました」  亜子はきちんとアイロンがかかったハンカチをバッグにしまった。  ウェイターが注文を聞きに来た。  亜子は「珈琲」と言った。  百瀬は「わたしも珈琲を。それとショートケーキふたつ」と言った。  亜子はハッとした。  ここのショートケーキはおいしい。が、高い。二度も百瀬に払わせるのは気の毒だ。 「百瀬さんのバースデー、仕切り直しましょうか」と言ってみる。自分が払う口実を作ってみた。  亜子は思う。世田谷猫屋敷事件の発端は自分だ。あのせいで、百瀬は大手事務所を追い出された。さらには三年間、ナイス結婚相談所で相当量の会費を払わせた。最後に百瀬は「金が尽きました」と言った。  亜子はテヌーを引き取りに行く時、初めて百瀬が住むアパートを見た。想像をはるかに越えたみすぼらしさに、驚いた。金が無いのは事実なのだ。  おそるおそる部屋に入ると、古いが磨き込まれたステンレス製の流し台、カーテンには何ヵ所か繕ったあとがある。質素この上ないが、きちんと整頓されており、その部屋から、誠実に生きる姿勢が伝わってきた。  それは百瀬そのものの、まっすぐで、あたたかさを持った部屋だった。あのアパートを見て、この人と一緒に生きたい、という思いが固まったのだ。  百瀬は思い切って電話をかけてよかったと思った。  紳士にあるまじきふるまいをしたにもかかわらず、不思議とこうして許されている。怒っているようでもないし、ショートケーキがきたら、今度は目の前で食べてくれる。あの笑顔が見られると思うと、期待でいっぱいだ。  それに、珈琲だ。彼女はブラックで飲むというデータが既にある。砂糖やミルクを勧める心遣いは不要だ。  見合いでは常に初対面の相手なので、どこからどこまで気遣ったらよいか、いつも不安でいっぱいだった。ひとりの相手とつき合うとは、なんと心地よいことか。毎度データが積み上がってゆく。そのうち相手と自分の区別がつかないほど、わかり合えるのだろうか。  亜子は百瀬の目をまっすぐに見た。 「百瀬さん、この前このお店に来たとき、提案があるって、おっしゃってたじゃないですか。その提案、よかったら聞かせてくれませんか」 「はい」と言って百瀬は鞄から大学ノートを出した。  そのとき、珈琲とケーキが目の前に置かれた。注文通りだ。  亜子は「お誕生日おめでとう」と言った。  百瀬は「ありがとう」と言おうとして、のどが詰まるような、妙な感じがして、うまく言えなかった。  亜子はショートケーキを食べ始めた。あまり器用ではない手で、少しこぼしながら、大きな口でぱくぱく食べた。  この指があのぬいぐるみを縫ったのだ。  百瀬は大学ノートを鞄にしまった。そしてショートケーキをひとくち食べてから、言った。 「そう面白くはない提案なんです。大福さんのためというより、わたしの希望なんです。一度、わたしの事務所においでくださいませんか。わたしには家族がありませんが、一緒に働いてくれる仲間ふたりと、現在十匹の猫がいます。みんなに大福さんをわたしの婚約者として紹介したいのです。  仲間のひとりは野呂法男さん。秘書をやってくれています。左手の薬指に指輪をしていますが、独身です。博識で、紙飛行機が趣味です。もうひとりは仁科七重さん。事務をやってくれています。猫係も兼務してくれています。おふたりはわたしにたいへんよくしてくださいます。大福さんのことも大切にしてくれるでしょう。  それとあの、先に言っておきますが、事務所のドアを見たら、きっと驚かれると思います。ショッキングイエローなんです。七重さんの強い意志であの色と決まっています。わたしは最初驚いたのですが、だんだん馴染んできました。むしろ今ではあのドアが自慢です。七重さんが黄色に飽きて、水色にすると言っても、黄色のままにしてくださいと、お願いするつもりです。黄色はすなわち、ひまわりの色です。正義と自由の色なんです」  ウェイターは妙な客がいるものだと思った。  ださい中年男が延々と話し続け、盗み聞きした範囲では、ちっとも面白みがない。  ときどきテヌーがどうとか、下手なフランス語を交えて教養をひけらかし、将来の夢として、秋田の靴屋で靴を磨いてもらいましょうなどとほざいている。  しょぼい。なぜ秋田で靴磨くんだ?  なのに、あいつにはもったいないほどかわいらしい女性がうれしそうにうんうんそうしましょうとうなずいている。  世の中はわからない。  土曜の昼下がり。客は少ない。しゃべる客は追加オーダーしないというデータもあるし、小一時間くらい昼寝でもしようかと、奥の部屋へ引っ込んだ。  夏の稲は生命を謳歌するように青々と空に向かっている。  田部井陽子は日除け帽をかぶり、もんぺ姿で、草むしりをしている。  あぜ道にはひまわりが一列にずらりと並び、田んぼを見下ろしている。  遠くから声が聞こえる。 「おかあさーん」  陽子は汗をぬぐいながら、声のほうを見る。  あぜ道をランドセルを背負ったすずが走ってくる。  太陽の下、日焼けしたすずは、腕をぶんぶん振り回して走ってくる。  ひまわりなどに目も止めず。「ただいまー」と叫ぶ。  陽子は田んぼからあぜ道に上り、走ってきたすずを受け止める。  すずは母を見上げて言った。 「いきものがかりをやってきた!」 「そう! 楽しそうね」 「ねえ、あとでおとうさんとこ行く?」  陽子は後ろを見る。遠くに白い病院が見える。 「まず家に帰って、宿題してからね」 「えー」 「じゃあ、いったん帰って、おばあちゃんに病院へ行くって言いなさい。ランドセルは置いて、宿題だけ持ってきなさい。おかあさんと一緒に、おとうさんのそばでやろう」 「はい!」  すずはランドセルをカタカタ鳴らしながら走って行く。  陽子は叫ぶ。 「帰ったらうがいと手洗い忘れないでよ」  三階の入院病棟の窓からは田んぼが見える。  田部井耕平はその景色を見たことがない。  窓辺には一輪ざしにひまわりがさしてある。  窓から強い風が入ってきて、ひまわりの花びらが数枚散った。  黄色のひとひらは風に乗り、ひらひらと舞い、やがて田部井耕平の頬に着地した。  そのとき、まぶたがかすかに震えた。  やがてまぶたは重そうにゆっくりと開き、うつろな目はしばらく泳いだ。  田部井が最初に見たのはひまわりであった。 [#改ページ] 大山淳子(おおやま・じゅんこ) 東京都出身。 2006年、『三日月夜話』で城戸賞入選。 2008年、『通夜女《つやめ》』で函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞グランプリ。 2008年、本作で第3回TBS・講談社ドラマ原作大賞を受賞。 2011年、『猫弁 死体の身代金』で第3回TBS・講談社ドラマ原作大賞を受賞しデビュー。受賞作は『猫弁 天才百瀬とやっかいな依頼人たち』と改題され、2012年2月に単行本、3月文庫を発売し、TBSでドラマ化された。 作中、タイハクオウム杉山のセリフに、映画『どついたるねん』(1989年公開の阪本順治監督作品)のセリフを一部引用させていただきました。 [#地付き]著者 本書は書き下ろしです。